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SI 第三章 消えた未来 4 |
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扉を開くと部屋の中心にぽつんとドラム缶があるだけでヒトの姿は見えなかった。しかし、ミナの足跡は間違いなくこの部屋に辿り着いている。彼は、おそらくここにいる。 「卯木(うつぎ)さん」 僕が声を上げると、ドラム缶が微妙に揺れ、中からのっそりと男が顔を出した。 髪は短く、メッシュを入れているのか所々に明るい色が混ざっている。手首や首は骨と皮しかないのではないかと思うほど病的に細い。顔は痩せこけ頬骨がくっきり闇の中に浮かび上がっている。幽霊という言葉がこれほどまで似合う男もいないだろう。ミナから三十代ということで話を聞いていたが、その顔は実年齢より若く見える。 まさかドラム缶の中に入っているとは。ドラム缶はオイルやゴミ鉄を入れる容器だという認識を改める必要がありそうだ。 僕はミナから卯木に関しての詳しい容姿を教えて貰ったわけではない。確認の意味も込め、もう一度彼の名前を呼ぶ。 「卯木ケンジさんで、間違いないですね?」 卯木は煩わしいという風に一つうなり声をあげ、眉を潜めた。僕はその仕草で、彼が卯木ケンジであることを確信した。 「卯木さん。あなたが、人間を自壊させ、ミナを殺した犯人なんですね」 自壊、という言葉にぴくんと耳が動く。ドラム缶から体を乗り出し、両腕をぶらぶらと垂らす。 「……誰、お前」と卯木が面倒くさそうに口を開いた。声は細く目を瞑れば女性が喋っているように聞こえる。 「僕は神崎アキラ。あなたが殺したミナの友達です」 僕の感覚が引き延ばされ、水より薄く、現実より乖離していく。 卯木は驚いたように僅かに目を見開いた。 「殺した? それは違うよ神崎君。殺したんじゃない。勝手に死んだんだ」 「あなたが能力を使ってそうさせたのであれば、あなたが殺したも同然だ。違いますか?」 僕の言葉を受けて、卯木が引き笑いする。まるで壊れたアコーディオンのような音が部屋に響く。ここまで不快な笑い声は初めてだ。 「神崎君は僕の能力の、一体何を知っているんだ」 部屋の空気が一瞬にして引き締まる。冷たい汗が頬を伝う。 「まあ立ち話もなんだし、座れよ」 突然、僕の腰が自立的に床へ落ちた。座ろうと思ったわけではない。自分の意志とは全く無関係な動きに、僕は唖然とした。 今まで無意識に動かしていた足が、今は意識しても動かない。足の先から腿の付け根までぼぅっとしていて、正座して血が巡らなくなった時の感覚に似ている。 「君、面白いね。少しお話をしようか、神崎君」 ドラム缶の縁に体を預けた卯木は、楽しそうな声を出した。 「例えばのお友達が目の前で、急に手を火あぶりにしたら、どう思う?」 彼がどんな話をしようとしているのか、どんな答えをほしがっているのか、慎重に推測しながら口を開く。 「……熱そうだと、思います」 「うんうん。そうだよねぇ。でもその熱を、君は感じるかい?」 「いいえ。熱そうだとは思いますが、熱さは感じません」 「では、お友達は本当に熱さを感じているか、君はどうやって確かめているんだろう?」 「それは」汗が頬を伝う。「おそらく、自分の経験だと思います」 「良い答えだ、神崎君」 僕の答えに心底満足したように、彼は口元をつり上げて頷いた。 「でもそれは、君のお友達が熱を感じているかどうかの答えにはなってない。お友達がとても上手に熱がっている演技をしていない保証はどこにもない。お友達が自分と同じように――もちろん強弱はあるだろうが、同じ質の痛みを感じているかどうか、確かめてみたくはならないかい?」 ズンと、ビル全体が大きな音と共に振動する。地震かと思ったが、そうではない。 「やれやれ。君のお友達は、少々荒っぽいようだね」 卯木は壁を見て目を細めた。壁の向こう側ではおそらく、サトミさんが男達と格闘しているはずだ。はやく、能力を解かせて彼女を助けないと。 踏ん張りの利かなくなった腰を無理槍持ち上げようと体を動かす。しかし、鉛のように重くなった足は、僕の力ではびくともしない。 「神崎君。君は本当に相手が痛みを感じていると思うかい?」 無理に立ち上がろうとしてバランスを崩し、転倒する。幸い腕は僕の意識と繋がっていて、床にぶつかりそうになった頭をかばうことができた。 「そんなもの、確かめなくったって演技でないことは分かります」 「君は一体いつから自分の見たものが実在するんだって、盲目的に信じるようになったんだい? どこにも実証があるわけではないのに。だから僕はね、確かめてみたいんだよ。僕以外の誰かは、世界の作り出した幻じゃないということを。僕と同じく、誰かに操られているわけではない。痛みがあって、意志があるっているのを、ね」 とにかく、足が動かない状況をどうにかしないと。辺りを見渡しても、能力解除に使えそうな道具はない。そもそも、リゼイトの能力は物理的な力で解くことは不可能だ。 ふと、自分にもできることを思いだす。ミナを見つけたときと同じ方法を使えば、卯木の能力を解除できるかもしれない。 考えをすぐさま実行に移す。 思考が停止するイメージを練り上げる。 僕の意識に浸食している能力を絡め取る。 ……だが、ミナの時とは違い、能力が解ける気配がない。 どういうことだ? あの時は、うまくいったのに! 「神崎君。君も僕の実験に付き合ってくれないかな?」 言葉に冷たいものを感じ、心が一気に凍り付く。 視線を上げると、ドラム缶から身を乗り出した卯木は、口が裂けたように歪に笑っていた。 「呼吸を止めろ」 彼の言葉と同時に、僕は息を吸うことも吐くこともできなくなった。腹部は動くのに、酸素は肺に取り込まれない。 「――っ!」 集中が出来ないから声が出せない。脈動が強さを増す。動いてもどうしようもない。体全体から脂汗が吹き出てくる。気温はそう暑くないのに体が火照る。 まずい……どうにかしないと! もう一度、僕は自分の意識に浸食している能力の停止を試みるが、集中が乱れて能力は発動できない。 どうすれば……。 僕は無我夢中で立ち上がり、何か使えそうなものを求める。 なにか、呼吸する方法はないか!? 「ねえ、神崎君、苦しいのかい? くくく、苦しそうに見えるね。顔、真っ赤だもんねぇ。けど、僕は君から全く苦しみを感じないよ!」 ――うん? 目まぐるしく回転していた思考が急激に冷却される。 どうやって僕は立ち上がったんだ? さっきまで、僕の足は操作されていたっていうのに。 いや、今はそれどころじゃない。呼吸をどうにかしないと。 破れかぶれで僕は自分の胸を強く押す。成功する確率は半分半分だったが、微量に空気を肺に取り込むことに成功した。 「まさか、自分の胸を押して強制的に肺を動かそうだなんて……。神崎君、頭いいねぇ!」 心底驚いたような声を出し、わざとらしく肩を竦めた。 多少息が出来たところで、苦しいことには変らない。胸を強く押しすぎて、肋骨がミシミシと音を立てる。 「でも、これじゃあつまらないね」卯木は鼻を鳴らす。「もう呼吸していいよ」 喉の奥の鉛が突然消え去り、僕はやっと普通に呼吸できるようになった。膝に手を付き素早く肺へ空気を取り込む。 あと一分呼吸を止められていたら正直、危なかった。 息を整えながら、僕は先ほど感じた疑問を組み立てる。 僕の足は卯木に操られて動かなくなっていた。しかし、彼が僕の呼吸を止めてからどこかのタイミングで僕の足は動くようになった。 彼の能力が解けた原因はなんだ? 何が切っ掛けだったんだ? 「卯木さん。あなたはどうして人間を殺そうと思ったんですか?」 息が整っても答えが出ず、時間稼ぎの問いをぶつける。 「殺そうと思ってはいないよ……と僕が反論してしまえば押し問答になってしまうね。ま、とりあえず君の意見に合わせよう。神崎君。僕は、確かめたいんだよ。自分以外は幻ではないんだということを。だから僕は、感情が強烈に発散されるだろう自壊をさせて、それを感じ取ろうとしたんだ。けれど、結局今のところそれは失敗に終わっている。どうしてだろうねぇ。みんな幻だからかな?」 至極残念そうに首を横へ振る。 「じゃあミナも、そういう理由で殺したんですか?」 僕の問いに、卯木はやんわり首を振った。 「彼女、僕の実験に付き合ってくれなくてね。お人形みたいに可愛い子なのに、つれないよね。僕がこっちに来いって言ったのに、それをするりと交わしてビルから出て行こうとするんだもん。ちょっと良いことしようって誘った僕がとっても惨めだったよ。 僕がここに住んでいることを警察に告げられると少々厄介だから、彼女の背中にね『死ね』って言ってやったんだ。ああそうか、あの時はすぐに死ななかったけど、結局彼女、死んだのかぁ。それは残念だなぁ。近くに居たかったなぁ。彼女の苦痛なら、僕に伝わったかもしれなかったのに……」 プチプチと、何かが弾ける音が聞こえた。拳の内側から、暖かいものがあふれ出す。 「彼女、最後に何か言ってた?」 「死にたくないって、生きていたいって言ってました」 「ああ……その言葉、聞きたかったなぁ。人間よりも強く生存を求めるリゼイトなら、その言葉は僕に感情を届けるくらい、凄まじい力をもっていたかもしれないね。ああ、ドラム缶になんて引きこもっていないで、彼女の後を追えば良かったなぁ」 卯木はうっとりとした声を出した。 ゆっくり深呼吸をする。 僅かに息が震えているが、大丈夫。 おそらく、僕は冷静だ。 「ミナ、実は最近まで自宅に軟禁されていたんです。実の兄に虐待されて、それでも兄の事を恨まなかった、とても優しい子でした。つい一、二週間前くらいにSIが彼女の家庭に介入しまして、僕と街中を自由に歩けるようになりました。よほど嬉しかったんでしょう、特に印象に残らないような建物を見て、本当に楽しそうに、笑ってました。それを、あなたは……」 一歩踏み出す。 体から感覚が消える。 耳から音が遠ざかっていく。 僕の様子を見た卯木が、玩具を目の前にした子どものような表情で立ち上がった。ドラム缶に足をかけ跳躍。床に着地する。蹴った勢いでドラム缶が盛大な音を立てて倒れ、後方へ転がる。 「いいね、アキラ君。その顔! 完全に無表情だ。そんな顔、僕は一度も見たことがない。君はもしかすると、僕と同じ感覚を持っている実体なのかも――」 「黙れ」 耳障りな声がいい加減耐えきれなかった。 無言で彼との距離を詰める。 もう終わりにしたい。彼と同じ空間にいるのが苦痛で仕方ない。彼に会えば、胸のもやもやの正体が何であるか分かるかと思っていたけど、はっきりしないままどんどん膨れあがっていく。無理に触れようとすると、体の中心を万力でねじ曲げられるような痛みを発する。 オーケー、認めよう。僕は、すごく頭にきてる。 「面白くないな。なんだい? その態度は。……君に命があるうちに、いろんな実験をしてみたかったけど、君がそういう態度に出るなら、仕方ないね。目障りだ。今すぐ死ね」 卯木が僕に命令する。 瞬間的に僕は体全体に停止の網を張る。 腕が動くより早く、自らの体を触手で絡め取る。 強制的に動こうとする体を、 無理のない停止へと導く。 僕は操作された自らの力と、能力の力のせめぎ合いを注意深く知覚する。 動こうとしているのは腕だけだった。おそらく、僕が自らの腕を停止させなければ、佐久間さんやミナの二の舞になっていただろう。 直感的な閃きでしかなかったが、僕の予想は的中した。彼は言葉での命令を強制させる力があるようだ。具体的な命令であればその通り実行されるが、抽象的――死ねなどの言葉であれば、命令がどのように作用するのか卯木は判断できない。命令されるヒトが出来る範囲のことしか行えない……いや、自らの手、肉体によってのみ出来る自壊しか行えないんじゃないだろうか。でなければ、僕はまっさきに自分の能力で心臓を止めているはずだ。 限界以上の力が生み出されるわけでもないなら、僕にも対抗できる術はある。 おそらく、彼の操作により僕の停止が破られることはない。僕はサトミさんのように強い力があるわけではないし、だいいち、僕の能力は僕に近ければ近いほど停止させる力を増す。自分に対して一番効果がある能力だなんて、諸刃の剣もいいところだ。 「どうして……死なないんだ」 卯木の表情が歪む。初めて自分の能力が通用しない相手を見るだろう、しかし、彼は自らの力を疑ってはいないようだ。 「死ね! 今すぐ死ね!」 僕の体は自身を殺そうと、続いて呼吸を止めた。どうやら今日は無酸素に縁があるようだ。 呼吸が停止しても、彼の元へと辿り着くための時間は十分にある。 僕の状態を悟られぬよう表情を消し、焦らずに歩み寄る。 ミナはもっと、辛かったんだよな……。 呼吸を止めるのとは比較にならないくらい、苦しかったんだよな。 痛みがわからなくったって、想像することはできる。 それだけじゃ、どうしていけないんだ? それだけだから、相手の存在が信じられないのか? 「ど、どうしてだよ……。どうして僕の命令が届かないんだ!?」 あと数歩で手が届くという所まで来た。卯木は能力が発動しないことで完全に怯え、腰を抜かしている。 「ち、近寄るな!」 彼の命令を受け、僕の足がぴたりと停止する。なるほど、近寄るなと命令されたら、足を止めるのか。てっきり後ろへ下がるものだと思ったけど……。まあ、遠ざかれと言われたわけじゃないから、当然と言えば当然か。 今まで停止させていた腕を解放し、一つ深呼吸をする。 「あなたが僕に何度も命令したおかげで、僕はあなたの能力の欠点が大体わかりました」 ズンッとビルが再び振動する。足が動かないため、転ばないよう上半身だけでバランスをとる。 「もしかして、あなたの命令は一人につき、一つまでなんじゃないですか?」 座れと命令され、足に全く力が入らなかった状態であったのに、呼吸を止めろと命令された後には座れという命令は効力を失っていた。死ねと命令された後に、近寄るなと命令され自壊しようとしていた体の動きが止まった。 サトミさんと戦っている三人の男性が卯木により操られていることから、全体を通しての操作数ではないことがわかる。 つまり彼の命令は、上書き消去されるんだ。 卯木が息を吸い込み、口を動かす。すぐさま僕は触手を伸ばし行動を停止させる。 イメージを練り上げ、 触手が卯木を捕らえる。 「――っ!」 呼吸を停止させられた卯木が身をよじりだした。 「僕の能力は流動系で、物体を停止させられます。能力ランクはEといったところでさほど強くありません。効果範囲も広くありません。あなたほど強い能力じゃありません。ですが、この距離ならあなたの呼吸くらい、楽に止められます」 呼吸しようと口を大きく開ける卯木の顔が、みるみる赤く染まっていく。先ほどの僕と同じ状態となったのだ。当然だろう。 「どうです。少しは苦しみがわかりましたか? 先ほど僕は、今のあなたの状態と同じ苦しみを味わっていました。どうです、実感できましたか?」 卯木は胸に手を当て、僕が試した呼吸法を行う。しかし、肺は動かない。 当たり前だ。彼の能力は意識に作用し呼吸を止めるもので、別の所から力を加えれば肺は動く。それに対し僕の能力は物理的に肺の機能を停止させてしまう。いくら力を入れて胸を押そうとも、肋骨が折れるだけだ。 卯木の顔が赤から白へ変わる。唇は既に真紫だ。 「……何が、実験ですか。これにあなたはどんな夢を見たんですか? 何の意味があるっていうんですか? こんなの、面白くもなんともない!」 胸を覆っていた触手を外す。卯木は身をよじり、唾を吐き出しながら息を吸い込む。 彼は虚ろな瞳で僕を見上げる。 「こ……殺さないでくれ」 「殺しませんよ」僕は卯木を見下ろす。「あなたを殺したって、ミナは帰って来ませんから」 もうミナは笑わない。怒らないし、ふて腐れない。 彼女はもう、どこにもいないんだ……。 「それに、ヒトを殺しても不快感が残るだけです。だから、殺しません。だけど――」 停止の触手で卯木全体を覆う。 彼の体から動を奪う。 動けなくなった卯木が瞳だけを僕へ向ける。 僕は上半身だけを使い、前方に飛ぶ。 空中で体を返し、肘を彼の顔面へと向ける。 「ミナを奪った責任は取れぇぇぇ!!」 狙い違わず卯木の顔面に、僕の肘がめり込んだ。肘に鈍い感触が伝わる。 肘で僕の全体重を押し込んだのだ。おそらく鼻の骨が折れたのだろう。 卯木の体がヒクヒクと痙攣し、ぷつりと糸が切れるように停止した。それと同時に、僕の足に自由が戻る。気を失うと、命令が解除されるのか……。 体を起こし一つ息をついた瞬間、部屋の中に自動車事故が起ったような大爆音が響き渡った。あまりの音の大きさに、僕の肩ははじかれた様に飛び上がった。 音が聞こえたと同時に、煙か粉塵かが勢いよく室内へと流れ込み視界を遮る。強烈なかび臭さが鼻腔をくぐり抜け、慌てて僕は鼻を押さえた。 鼓動が強く硬く鳴る。 何が、起こったんだ? 空気よりも重いのだろう、辺りに漂うモヤは徐々に地面へと落下する。泥水の中の砂が沈殿していくような速度で、視界が開けてゆく。 「アキラ君!」 空気を切り裂くようなサトミさんの声が聞こえた。姿が見えなくとも、彼女が臨戦態勢となっていることを、その声から想像できた。 「大丈夫、生きてます。こちらは、終わりました」 「なんだ。終わっちゃったんだ」 瞬転、サトミさんは腰が砕けてしまいそうなほどのほほんとした声を出した。僕の緊張ががらがらと音を立てて崩れた。本当に切り替えが早いなぁ、このヒトは。 粉塵の向こうから姿を現したサトミさんの姿を見て、僕は息を飲んだ。 彼女の手には、ぐったりした男性が三人携えられている。右手で二人、左手で一人、それぞれの襟元を握り、まるで重さを感じていないような平然とした様子でこちらへ歩いてくる。 男性の手足にはワイヤー、というか、コンクリートを補強する鉄筋が巻かれている。一体どんな重機を使えば太い鉄の棒をロープのように巻き付けられるのか……。 「こいつが、卯木? ……ふーん」 気を失っている卯木をのぞき込み、サトミさんは鼻を鳴らした。 「サトミさんは、大丈夫ですか? 怪我、ありません?」 「かなり危なかった」 神妙な面持ちで彼女は言った。見れば彼女のボトムスやカットソーが、まるでビル内部をモップがけしたかのように、汚れてぐちゃぐちゃになっていた。 能力のない人間だとはいえ、自壊を防ぐ脳のリミットを外された男性が三人も相手だったんだ。いくらサトミさんでも、厳かった――、 「危うく、本気出すところだった……」 「えぇ!?」 本気出さないで、コレ? 鉄筋を男の手足に巻き付けて、壁をぶち破っても、彼女に取っては全力以下? 「じょ、冗談ですよね?」 「ううん。本気でやったらビル壊しちゃう」 なにやら恐ろしい言葉が聞こえた気がする。おそらく冗談だろう。うん、そうに違いない。 ……彼女の戦闘に参加できなくて本当に良かった。 ミナの失踪を告げる連絡があってから今に至るまで、思い返してみるとまるで長い夢を見ている気分にさせられる。 僕は卯木を、サトミさんはスーツ姿の三人の男性を抱えて、ビルの一階まで上がった。 途中、アオムシが管を巻いたような文様の入った壁に、所々ヒトが軽々くぐり抜けられるほど大きな穴が空いているのを見た。 ……何があったのかは、極力考えないようにしよう。 一階に着くとサトミさんが携帯を取り出し、救急車を呼び出した。操られていただろう三人の男性に、そこまで酷い外傷は見あたらなかったが、普段は出ない力を出してサトミさんと戦ったのだ。目には見えない大きな異常が、彼らの体のいたる所で発生していることだろう。 救急車と一緒に、警察も呼び出す。電話で警察と細かいやりとりをする間に、サトミさんは携帯電話を器用に肩と耳で挟みながら、男性三人の手足に巻かれていた鉄筋を、まるで割り箸を折るかのように、無造作な手つきで折って外した。 「そういえば、サトミさんの容疑者リストに卯木の名前がありましたね。どうして、彼を疑わなかったんですか?」 ミナより真っ先に彼を疑うべきだ、と僕は思った。 「ああ、それはね」サトミさんは渋い表情となった。「卯木がEランクの能力者だったからよ」 「そんな。あれほど強くヒトを操る彼が、Eランクなんて……」 困惑する僕を他所に、彼女は緩慢な動作でボトムスについた汚れを払った。 「嘘じゃないよ。容疑者リストに載っている情報は、病院から取り寄せたカルテだから。あたしは今も卯木が犯人ではないんじゃないかって思ってる。……けど、どうなんだろうね」 サトミさんは手を後ろで組んで、意味ありげな笑みを浮かべた。 「人間って、どれくらいあたし達のことを知っているんだろう」 僕らのことを知ろうとしないんだ。何も知らないに決まっている。 「ようするにっ、人間の判断は間違ってるのよ」 そうかもしれない、と僕は思った。能力測定だって、人間の作り出した人間本意なマシンを使用するんだ。測定の基準や視点が違っていてもおかしくない。 人間が間違っているという意味ではなく、僕らとは決定的に違うのだということ。 最初に到着したのは救急車だった。サトミさんは自らがSIだと名乗った上で、三人を病院へ搬送してもらうよう頼んだ。救急隊員は男性らの体にこれといった異常を見つけられず、困惑した表情で何事か呟きあった。繁華街で酔いつぶれたサラリーマンだと思ったのかも知れない。 救急隊員は首を何度も傾げながら、渋々といった表情で三人の男性を搬送していった。 その後、遅れて警察がビルの前に到着した。車はパトカーではなく黒塗りのシヴィックだった。スーツを着た見覚えのある男二名が眉間に皺を寄せ、腹立たしげに車の扉を閉めた。片方は禿頭のでっぷりと膨らんだ刑事で、もう片方は軽薄な笑みを浮かべている若い刑事だった。僕を、取り調べした人間だ。 彼らはまだ意識を取り戻さない卯木を乱暴に車へ押し入れ、サトミさんと短くやりとりをした。 刑事が車に乗る際、『覚えてろよ』というふうに、二人ともが僕を一瞬だけ睨んだ。 彼らの四つの眼球が聞こえない音を立てて僕を捕らえた瞬間、僕の背中が痛い程に粟立った。 夢見心地だった僕の意識を現実へ引き戻すには、その視線だけで十分だった。 もう、ミナは居ない……。 不意に、僕の左の二の腕がそっと掴まれた。 ――ミナ!? 振り返るといやらしい目つきで笑うサトミさんが目に入った。 「いま、ミナが掴んだんだって勘違いしたでしょ?」 「冗談は辞めて下さい、サトミさん」 「……ん」と彼女は僕の左腕を抱え、神妙な面持ちで短く頷いた。でもやっぱり堪えきれずにくぐもって笑った。普段であれば彼女に笑われた多少は腹を立てたことだろう。しかし今は何故か、彼女の笑い声を聞いても胸が苦しくなるだけだった。 それはきっと、彼女が何かを理解し、諦めたような表情で笑っていたからだ。
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