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男性には向かない職業



01

 赤ちゃんが特別好きだったわけじゃないけど、命が産まれるその瞬間を手助けしたいなっていう漠然とした思いから、私は助産師になった。
 赤ちゃんが好きじゃないのにどうしてなったの? って友達に聞かれることもあったけど、赤ちゃんが好きだからなる職業じゃないと思うんだ。
 少なくとも、自分がやりたいことに少ぉしでも関連している分だけ、生きるため、お金を貰うためだけに仕事をしている人達より、私は幸せだと思う。

 助産師の研修生としていろいろお産に立ち会ったりはしたんだけど、私が国家資格を取って初めての助産はとても感動した。
「がんばってください。もうすぐですよ」と声を枯らしながら母親を励ます。励ましているうちに、私も「ひっひっふー」といきんで、いきみすぎて目眩がして、倒れそうになった。
 ようやっと産道を通って、産み落とされた瞬間に赤ちゃんが産声を上げる。
 体に付着する羊水や血液を拭き取った時、まんまるの顔をくしゃっとさせて、更に赤くなる。泣き声を上げる度に、
『僕たち私たちは生きています』
『生きているんです』
『生きたいんです』
 って、体の底からひしひしと伝わってくる感覚が、私の胸を熱くさせた。
 胸が熱くなって、涙が滝のように出た。
 赤ちゃんと一緒にえぐえぐと泣いた。
 私があまりに泣くものだから「泣きすぎるな、バカタレ」と蒲池先輩にお尻を蹴られた……。
「ひ、酷いです。蒲池師長」
 師長と呼んだ瞬間に顔をしかめ、二度目の蹴りを放った。もちろん打点は私の臀部。
 ……痛い。
「師長じゃなく先輩と呼べ、バカタレ」
 師長って呼ばれるのが嫌なのかな? こんどその理由を聞いてみよう。
 彼女の口ぶりは患者さんにも噂されるくらい女らしくないし、怒ったときの動作は荒々しいけど、心は優しい人だ……と思う。
 私がとある赤ちゃんを見た時だ。その子の目はお店にならぶ魚の目のように死んでいた。あまりにも虚ろで、可哀想だった。魂を注入してあげればきっと目が輝くと思った。だから私は赤ちゃんの額に水性ペンで『魂』と書いてみた。
『魂』を注入し終えると、額がくすぐったかったのか赤ちゃんは両手を顔へ伸ばして満面の笑みを浮べていた。
 そんな様子を見ていると、なんだか赤ちゃんの額にそんな文字を書くことへの罪悪感がこみ上げてきて、急いでハンカチに消毒液をなじませて消そうとした。
 ――そこを蒲池先輩に見つかった。
 殺されそうになった。
 ほんと、死ぬかと思った。
 ナースキャップを張り手一発で吹き飛ばされて、髪の毛を思いっきり掴まれた。そのままリノリウム張りの床に正座させられた。
 ……もう二度と彼女を怒らせまい。
 目の死んだ赤ちゃんは、私が怒られている横で楽しそうにきゃっきゃと笑っていた。
 全く、親の心子知らずだ。

 私のいる産婦人科では毎日新しい命が産れる。
 赤ちゃんが産まれると私はいつも自分事のように喜ぶ。
「おめでとうございます!」
「かわいい女の子ですよ!」
「元気な男の子です!」
 こう言う度に小さく強く拳を握りしめる。私の胸の奥がキューと音を立ててはち切れそうになって、踊り出したい気分になる。ここで踊り出したら人格が崩壊している人だと思われるのでぐっと堪える。
 でも、涙腺は何回か崩壊した。
 私があまりに喜ぶものだから、今しがた赤ちゃんを産んだばかりのお母さんに困惑されたこともあった。
 喜びが度を超えると、蒲池先輩の強烈な回し蹴りが私の臀部を直撃した。
 彼女に「あまりはしゃぐな」と窘められても、私は反省しない。
 だって、命が産れるって素敵なことじゃない? 喜ばしいことじゃない?
 私は毎日新しい命が産れる瞬間を助けられる喜びを噛みしめながら、助産後のほどよい疲労感に身をゆだねて思う。
 ――新しい命が産れる手助けをする助産師って、なんて素晴らしい職業なんだろう!

02

 ある日、産婦人科にまだ十八歳にも満たない少女が母親と一緒にやってきた。
 診察室に入るなり、母親が医者の全体像をなめ回すように見て『フン』と小さく鼻を鳴らした。少女は薄いピンクのフレアスカートにパーカーを羽織っていた。初めて産婦人科に来るのだろう、視線が定まらずオドオドして見えた。
 うん、そりゃあ怖いよね……。何されるのかわからない。突然脱げって言われるかもしれない。陰部に触られるかもしれない。触診する医者が男なんて考えたくもない。
「今日は、どうなされましたか?」
 山本先生がカルテをのぞき込んでから、少女を見た。カルテに書いてあるのに『何の為に来たか』って聞くなんて、意地が悪い。
「この子……妊娠してしまったんです。それで、堕ろしたくって」と少女が口を開く前に母親が言った。「そうですか」と山本先生は少女から視線を外さずに頷いた。
「この子は高校生だし、子供を産むにはまだ早いでしょ? 学校にバレたら退学になってしまうし。だから、二人で話し合ってここへ来ることにしたんです。……そうでしょ?」
 母親が凄むと、少女はぴくんと肩を揺らして頷いた。先生はカルテにペンを走らせながら母親の話しを聞いた。
 私は心の中だけで『だったら男にコンドームくらい着けさせろ!』と罵倒したけど、それを顔には出しはしない。
 この子にも生活があって、家族がいて、先生がいて、友達がいて……彼氏がいる。
 私の目の前を通り過ぎていく患者さんAでしかないけど、この子にも色んなバックボーンがあって、今回の堕胎について色々と悩みに悩んだんだろうなぁ。
 ファンデを厚く塗って隠してはいるけど、少女の目の下に大きなクマがあるのがわかった。
 ……なんとな〜く、気が重い。
 彼女はこれからよく知りもしない、好きでもない出頭医の男の前で子供を産むためではなく、堕ろす為に股を開く。
 そして中を見せる。
 奥、深くまで。
 私は学校でスラックスを履いたまま手術台の上に股を広げて乗った経験があるけど、下を履いているのに、顔が燃えるくらい熱くなった。
 この子は……ぜ、全部見せなきゃいけないんだよねぇ。
 彼女の状況を自分に当てはめると、非常に気が滅入る。
 う〜。言葉なく俯く少女を見ていたら、なんだかこの子に種を植え付けた男を殴り飛ばしたくなってきた……。
 男は女を性欲の掃きだめとしか思っていないの? 気持ちよければそれでいいの?
 彼女の今後の人生とか、手術費用とか、子供が産めなくなる可能性があるっていうことを、知ってるのかな。
 ……すっごい、ムカつく。
 手術日が決まり彼女らが退出すると「ムカついても顔に出すな」と先輩にお尻を蹴られた。
 どうして分かったんだろう。顔には出してなかったのになぁ。
 私はお尻をさすりながら、退出した少女に思いを馳せる。
 その少女は私にとって、初めて担当する人工中絶の患者となった。

 少女は身ごもってからまだ十週も経っていなかった。
 癌治療じゃないけど、発見が早くて良かったと思う。
 発見が遅いと、堕胎する少女の体に大きな負担がかかってしまう。それにほら、二十週付近になると出てくる赤ちゃんの形が……しっかりとした赤ちゃんなんですよ!? ガクガク。
 十二週くらいまでは自然流産という手もあったけど、担当医はその選択肢を挙げなかった。
 ……なんでだろう?

 手術日となり、少女は何の色気もない手術台の上で下半身を露出し股を広げた。
 頚管(けいかん)を拡張し、まだ成長していないモノを吸引器で吸い取る。
 子宮内に傷を付けることもなく無事全てを摘出し、手術が終わった。
 ごくたまにだけど、頚部に傷をつけるアホ医者がいる。出血しすぎて輸血しなきゃいけないわ、すぐに退院できないわ、子供が産めない体になってしまうわで、ろくなことにならない。
 だから、何事もなく終わって良かった。
 少女を一・二の・三っ! でストレッチャーへ移す。
「手術用具、洗っておいてね」と先輩は女の子を運び出す傍ら、私に声をかけた。
「は、はい」
 何となく、先輩の物言いに薄ら寒いものを感じた。
 先輩が消えると、手術室には私一人だけとなった。
 ……うう。気分的なものだろうけど、なんとなく生臭い。

 洗う――器具を洗う。台座を洗う。残り滓を水に流す。
 ここでは何もありませんでしたよ〜と念じつつ、血液をあまり凝視しないようにしながら私は後片付けを進める。血液に混じる固形物が『何なのか』を想像すると、えぐえぐ、と喉もとに酸っぱい塊がせり上がってくる。
「わ、私は普通のお片付けしていますよぉ〜」
 しんと静まりかえった手術室内部に、私の震える声は寂しく響いた。
 あらかた洗浄が終了して、残るはなるべく目に入れないようにしてきた医療器のみ。
 子宮内から取り出したモノが入っている吸引器に、恐る恐る手を触れる。
「……やっぱりこれも洗わないといけないんだよねぇ」
 戸惑っていても仕事は進まないので、「よしっ!」と気合いを入れてから吸引器を開く。
 むせ返る程の臭気が鼻腔を一気に通り抜ける。
 中は、血の海だった。
 どす黒い塊が、吸い出された勢いのまま、内部に付着している。
 見たくないと思っているのに、目が言うことを聞いてくれない。

 ――中には、
 吸い出された親指大の人型があった。
 ――中には、
 五本の指が、大腸が、小腸が、心臓が、脳が、へばりついていた。

 耳を圧迫する血流の音が、すごくうるさい。
 …………嘘、でしょ?
 息が苦しい。
 鳥肌が全身に立ち、針を刺すような痛みを発する。
 脳天から落ちる血液が冷たく下へ駆け抜ける。
 えぐえぐと、酸っぱいものがせり上がる。
 何度も唾を飲み込んで、それを押さえ込む。
 ゴクリという音が、誰もいない部屋に響いた。
 私の見間違いではない。
 いくら目を瞬かせても、ばらばらになってはいるけど、生きている人間を秘密道具でそのまま縮めたような物体が、そこにあった。
 小さくても、しっかり人間だった。
 人間にしか、見えなかった。
 お腹の中にいる子供の成長過程は、医学辞典の写真をもって知っていた。
 けど、まさか十週前後でここまで育っているとは……。
 でもどうしてだろう、堕胎した子供がこんなにリアルだなんて、学校の先生は誰一人教えてくれなかった。
『洗っておいてね』
 つまり、水に流す。
 全てを洗い流す。
 親指大の塊が、
 バラされ水に流れる。
 病院の医療排水として処理される。
 産れ出ようとしていた命が、
 無かったことになる。
 けれどあの女の子の人生には、
 ずっとこの、処理された見たことのない、
 産めなかった子供の幻影が付きまとう。
 私、こんなコト、したかったのかな……。
 赤ちゃんを水にバラして流す仕事をしたかったのかな。
 助産師って、こんな仕事なの?
 お腹の中にいれば、数ヶ月後には人間として誕生できたはずなんだよね。
 生きて、育って、笑って、泣いて、大きくなったんだよね。
 私はモノを直視する。
 無言で処理をする。

 洗う――吸引器を綺麗にする。透明の水が、赤黒い色に染まる。
 水は簡単に血を洗い流す。薄い手袋の膜を通じて冷たさを感じる。
 冷水は血を凝固させることなく、排水溝へ運ぶ。排水溝が吸引器の口のように、液体も固体も関係なく吸い寄せる。臭いだけが流されず手術室に停滞する。
 吸引器のパーツ一つ一つを丹念に洗い上げて、消毒行きのバケットへ入れて……はい、おしまい。
 手にはめていた手術用手袋を外し、手術衣を脱ぎ、一緒にゴミ箱へ捨てる。
「……手を、洗わなくちゃ」
 備え付けのブラシで、爪の隙間から指の間まで丹念に磨く。
 石けんをつけて、泡立てて、汚れを落とす。
 泡立つ石けんが徐々に茜色に染まる。
 水が流れる音と、ブラシの音が、室内に響く。
「うう……ひくっ……」
 血の付着した幻影が付きまとう。
 手を洗う。
 手が、汚れている。
 血液を落とす。
 落ちない……。取れない。
「ひくっ……ひくっ……」
「泣くな」
 いつの間にか、手を洗い続ける私の後ろに先輩がいた。
「……お前!」
 目を見開いた先輩が駆け寄って私の手を取る。
 先輩が乱暴な手つきで石けんの泡を洗い流すと、現れた私の手は傷だらけになっていた。
 自分の手の状況を理解して、ようやっと脳にピリピリとした痛みが伝わってきた。
「……ったく。手袋填めてんだから、手は軽く洗っておきゃいいんだよ」と先輩は吐き捨てた。いつもと同じようにキツイ口調なのにどうしてだろう、暖かい。
「……大ざっぱすぎるのは不潔です」
「それにしたって、お前のはやりすぎだ!」
 水で洗い続けた私の手は冷えきっていて、先輩の手が熱く感じる。
 傷が暖められ、痛みが増す。
 手なのか胸の奥なのかが、刺さるように痛い。
「……先輩。どうしてこんなコト、しなきゃいけないんですか」
「これが、私たちの仕事だ」
「う……うぅ」
 胸が締め付けられて、息ができない。
 口の中が塩辛い。
 唇を結んで、ぐっと耐える。
 でも、すぐに吹き出して嗚咽になる。
 私は、命が産れる瞬間の手助けをするために、助産師になったのに。
 こんな仕事をやりたかったわけじゃない。
 私は人殺しになりたかったわけじゃない!

 仕事が終わった後、先輩に飲みに行かないかと誘われた。まだ胸の中にむかつきが残っていたけど、すごく酔いたい気分だった。酔って何もかも忘れてしまいたかった。私は先輩と一緒に、近くの居酒屋へ飲みに行くことになった。
 先輩と入った居酒屋の表札にはでかでかと『焼き鳥』と書かれていた。
「嫌がらせですか!?」
 私は目に涙を浮かべて抗議した。
「仕方ないだろ? 病院の近くにはここくらいしか飲める場所がないんだから」
「にしたって、私はアレを見たんですよ? ……うぷっ」
 昼間に処理した人型を思い出し、酸っぱいものがのど元にせり上がってきた。慌てて口を押さえる。
「おいおい、吐くなよ? 出入り禁止になったらハルカを恨むからな」と先輩は口悪く言ったけど、私の背中をさすってくれた。
 運ばれてきたビールで酸っぱい物を飲み下した。気分は相変わらず悪かったけど、蒲池先輩が私の背中をばしばしと叩くから、それに気を取られて、今日の出来事をあまり深く考えずに済んだ。
 酔っぱらった蒲池先輩に私は首根っこを掴まれたり、ポニーテールを引っ張ったりされた。
 大暴れした挙げ句に先輩はテーブルに突っ伏していびきをかいて眠ってしまった。
 ……私は、この人をどうすればいいのだろう?
 先輩をどう処理したらいいか考えると、頭が痛くなった。

03

 救急車からの連絡が入る。
 今から私たちの産婦人科へ、二十一週目で産気づいた母親を運ぶとのことだった。
 NICUを調べるとまだ空きがあったので、即座に受け入れ体勢となる。
 けれど、どうしてだろう? ステーションにいるみんなが、暗く沈んでいる。
 NICUが満床になってしまうのが嫌なんだろうか?
 私はまだまだ新人で、NICUの受け入れ体勢がどの程度整備されているとか把握はしていない。だからってまるでお葬式みたいな顔をしているのはどうかと思う。これから私達は、赤ちゃんの命を救わなくちゃいけないのに、不謹慎だ。
 みんなが暗い顔をしてるのってもしかして、産気づいた状態のせい、かな?
 確かに二十一週といえば、超未熟児で危ない出産ということは分かっている。でも二十二週で出産して無事育った子供も世の中にはいる。きっと、情熱か呪術か気合いか何かがあれば、それが赤ちゃんに伝われば。……最悪天に祈れば、神様だってきっと助けてくれるに違いない。
 よし! 頑張ろう! お母さんも、赤ちゃんも、頑張るんだ。
 私が最初に諦めちゃいけない!
 一人意気込んでいると目の端で、先輩が白い木箱を組み立て始めた。
 白い木箱って確か……。
「せ、先輩、何やってるんですか!」
「うん、これか?」
「亡くなった赤ちゃんを入れる箱なんて組み立てないでくださいよ、縁起悪い」
「……ああ、お前、知らないんだっけ?」
 先輩の目が、気のせいかもしれないけど憂いを帯びて見えた。
「二十一週のジンクス。学校で習わなかったか?」
 聞いたことない。私は首を横へ振る。
「あのな、二十二週目に入った赤ん坊は生きられる確立が、低いけど存在する。けど、一週間前になると、どうしてだろうな、ダメなんだよ。神様の悪戯なのかな。赤ん坊が外で生活するためにどうしても必要なモノが、この一週間で造られるんだろうな」
「……でも、発育の具合は人それぞれですよね。これから運ばれてくる人はもしかしたら助かるかも――」
「それはない」
 先輩の目が鋭く私を射貫く。
 色々言いたいことはあった。助けようって思う気持ちが必要だとか、諦めるのは良くないとか、今の医療は昔と違うんだとか。けど、私のそうした言葉の群れは、彼女の視線に全て打ち落とされた。
「絶対に、助からない」
 先輩は言葉を句切って、私に強くぶつけた。
 本当に先輩は助ける気がないんだろうか。本当は助けたいんじゃないか。そう思うけど、先輩の目はぎゅっと細まって、瞳が奥に隠れてしまったから、彼女がどう思っているのか、推し量ることが出来なかった。

 女性が到着し、こちら側も準備万端で分娩に臨む。
 私は母親を大声で励ましていたけど、頭では先輩の、
『絶対に、助からない』
 という言葉がぐるぐる回っていた。
 お願い。生きるために産れてきて。
 女性は陣痛に耐えきれず、「痛い、痛いよ」と泣きながら大声を上げた。
 仰け反り、暴れようとするのを押さえ込んでは「ひっひっふーですよぉ」と彼女の声に負けぬよう大声で、しかし威圧しないよう伝える。
 名前が決まっているのかわからないまだ見ぬ赤ちゃん。
 どうか、お母さんのがんばりに応えて上げて!
 外に出て来たら、大声で泣いてあげて!
『産れてきたよ!』って。
『生きたいよ!』って。
 私は女性の手を取り、祈る。
「うぐ、んん!」
 女性が激しくいきんだその時、一キロにも満たない赤ちゃんが、完全に姿を現わした。彼女の位置からでは赤ちゃんが生まれたかどうか見えないようで、まだいきみ続けていた。
 赤ちゃんは手のひらサイズの小さな体躯を動かし、口を大きく広げる。
 がんばれ、泣け。
 呼吸をするんだ!
 泣けば、生きられるぞ!
 私の祈りに呼応したように、赤ちゃんがくしゃっと顔を歪ませ、
「ア゛ァ゛――」
 今まさに赤ちゃんが泣き出したところを、先輩が手を口に当てて止めた。
 …………え?
 手術室内部の喧噪が私から一気に遠のいた。
 この人は、
 なにを、
 やってるんだろう……。
 赤ちゃんが呼吸をするためには、泣き声を上げなくちゃいけなくて、それを、先輩が、手で口を押さえて止めている?
 整理しても事態が飲み込めない。
 先輩の顔を見ると、女性にばれぬよう私に向かって、唇に人差し指を当てる仕草をした。
 女性の見えないところでは、産み落とされた赤ちゃんが、口を押さえられて、息が出来なくて、赤色からみるみるうちにどす黒く変色していっている。
「何やってるんですか!」と、言えない。先輩の視線が鋭かったというのもあるけど、あまりの出来事で、口を開くが声が出せない。
 女性はようやっといきむのを止め、熱く、深く、息をゆっくり吐き出した。
「あ、ああ……産れたのね」
 女性の目の端からひと滴、涙がこぼれ落ちた。赤ちゃんが生まれて、本当によかった――という、涙だ。
 よほど陣痛が辛かったのだろう、彼女は産んだ赤ちゃんを確認する前に気を失ってしまった。
 母親が気を失うと同時に、小刻みに動いていた赤ちゃんも、動かなくなった。
 赤ちゃんが、お母さんの前で、死んだ。
 せっかく産れてきたのに、呼吸をしようとがんばっていたのに、先輩は……赤ちゃんの呼吸を止めた。泣こうとしているのを止めた。
 先輩が赤ちゃんを殺した!
「――っ先輩!」
 頭に血が上り、力一杯怒鳴る。
「何でこんなことするんですか!」
「ちょっと来い」
 私の勢いに負けないくらいの迫力を持って、先輩に袖を引っ張られた。
 喧嘩上等、殴り合いでも何でもやってやろうじゃないですか。
 あなたは、赤ちゃんを殺した。
 ……絶対に許せない。

「先輩、これってどういうことですか!」
 手術室から出ると私は先輩に突き放された。
「お前は邪魔だ。頭を冷やせ。終わるまで手術室に入るな」
「……え」
 先輩の冷静な声に一悶着あると身構えていた私は酷く混乱した。
 彼女は私をちらっと見る。けど、何も言わずに踵を返した。
「ちょ、ちょっと待ってください。どういう意味――」
 私の震える声に反応することなく、彼女は扉の向こう側へ歩き去った。
 手術室の扉が閉まるのを、私はただ呆けて見つめていた。

 ナースステーションの休憩室には色んな雑貨が揃っている。テレビやCDデッキや、誰が持ってきたのか少女漫画まである。
 私は休憩質の畳の上で膝を抱え、テレビも付けずにただ壁の染みを数えていた。
 数えた壁の染みが丁度五十七をこえた時、手術に立ち会った助産師の声が向こう側から聞こえてきた。
 後片付けの全てが終わったんだろう。
 どこからか、血のにおいがしてきた……。
 肩を見ると――きっと先輩に掴まれた時だろう――女性から流れ出た、どす黒い血液が手形状に付着していた。
 最後に見た赤ちゃん、これと同じ色してたな。
 どうして、先輩は口を押さえたんだろう。
 産れたあの子、生きたかっただろうなぁ。
 生きるために、呼吸しようとしていたのに。
「お前」後ろから呆れたような声が聞こえた「まだそんな恰好してたのか」
「……先輩」
 休憩室に現れた先輩は、目が腫れて、顔が青白くなってて、瞳に色が無かった。
「先輩……えぐっ……どうして赤ちゃんの……えぐっ……口を塞いだんですか」
「泣くなよ……」
「うう……赤ちゃんが……赤ちゃんがぁ!」
「とりあえず、感染症とか色々うるさいから、それ脱げ」
 涙が勝手に溢れてくる。声がどうしようもなく引きつって堪えられない。
 私は先輩に手術衣を、されるがままに脱がされた。
 先輩は脱がした手術衣を専用のゴミ箱へと捨てにいった。

 しばらく経って、私が徐々に冷静さを取り戻してきた頃、先輩は缶ビールを二つ手に提げて戻ってきた。
「お前さ、泣くんだったらもっと声を抑えろよ。ナースステーションの外まで聞こえてたぞ」
「……うう」私は怨みの籠もった視線を先輩に向けた。
「ほら」と先輩は缶ビールを投げて渡した。
 何とかキャッチしたけど、危なく落とすところだった。
「先輩。まだ営業中です」
「それを言うなら就業中。もう三十分もしないうちに引き継ぎだ」
 そう言うと、プシュ、と先輩は缶を開けてビールに口を付けた。
「就業中にお酒を飲むなんて、不謹慎です」
 私は缶を開けたはいいけど、口に運ぶ気力が無い。
「お前、今日の赤ん坊の事、根に持ってるのか」
「持たないわけ――!」自分でも驚く程大きな声が出た。深呼吸をして、声のトーンを意識的に下げる。「持たないわけ、ないじゃないですか。あれは、人殺しですよ?」
 ふぅ、と先輩がビールの缶を見つめため息をついた。
「お前はさ、赤ん坊が流産だったと知らされるのと、ちょっと生きた後に死んでしまうの、どっちが辛いと思う?」
「……それは」
 言いかけたけど、どっちも、辛い。
 すぐになんて、選べない。
「私はね、期待を持たせておいて赤ん坊が死んで、膨らんだ期待が切り裂かれるよりも、流産だったと告げられるほうが、多分マシなんじゃないかって思うんだよ。生きてる赤ん坊を見ちゃうと、未来を見るから。この子が大きくなって、大人になったらどんな子になるんだろうって、期待が膨らんじゃうから。その分だけ、死んだ時の傷は深くなると、そう思うんだよ」
 先輩がビールに口を付ける。
「だから……手を当てた。なかった事にした」
「あの子は泣いたんですよ? 生きられたかもしれないのに……」
 先輩は何も言わず首を横へ振った。
 気丈には振る舞っているけど、相変わらず彼女の瞳には色がない。
「私もね、立ち向かった事があるんだよ。けど、無理だった。二十一週目までは『流産』で、二十二週目から『死産』と言われるのは、二十一週のジンクスに関連した理由があるんだろうな。今回のように泣いた赤ん坊は居なかったけど、呼吸器を付けて生きながらえた赤ん坊はいるんだ。けれど、どの子もNICUで息を引き取った」
「…………」
 先輩は今にも泣き出しそうに、こぼれ落ちるものを食い止めるように、口を一文字に結んだ。彼女だって、赤ちゃんの口を塞ぐなんてやりたくなかったはずなんだ。じゃなきゃこんな顔、しない。
「……流産だって、辛いです」
 でも私は、結果を認められなくて口を尖らせる。
 膝をぎゅっと抱える。想像した流産の痛みに、耐えきれなくなりそうだ。
「そうだな。お前の言うとおりだ」
 先輩は苦笑いを浮かべた。
「何年間か助産師やってると、色んな事が起こる。私が知ってるやつで『赤ん坊が動かなくなった、おかしい』って言ってきた女性がいてね。案の定、エコーで測定してみると、赤ん坊の心臓が止まってたんだ。けど、医者はすぐに判断しなかった。あれは、心の準備をして貰うためだったのかもねぇ」
 先輩は私の近くに腰を下ろし、一口ビールを運んだ。
「次の日に入院する準備をしてもう一度来てくださいって、家に帰したんだ。もちろん、次の日にエコー測定しても結果は変らず。その女性に事情を話して、分娩することになった。
 ……陣痛促進剤と点滴をがんがん打ってね。既に死んでいる赤ん坊を産むってどういう気持ちなんだろうな。母親は、赤ん坊が生きて出てくるって思うから、がんばれる。陣痛にも耐えられる。……見ていて、すごく辛いお産だったよ」
 先輩の目にみるみる涙が溜まっていく。
 既に死んでいる赤ちゃんを産む苦しみ。
 そうか……。痛みがあるから、だから山本先生は自然流産の選択肢をあの少女に与えなかったんだ。
「それにしても、今日のはちょっと堪えたわ。まさか、あの赤ん坊が泣くとは思ってもみなかったからね。口から心臓が飛び出るかと思った」
 そう言うと先輩は笑った。神経痛のように目元も口元も引きつっていた。
「……それなのに、よく咄嗟に赤ちゃんの口を押さえられましたね」
 私は責めるように言った。
「そう……だな」
 先輩が上を向いて一気にビールを煽る。彼女の目の端から涙がこぼれ落ちて、口を袖で拭うと同時に一緒に拭った。
 しかし次の瞬間、彼女の表情は指導者のそれに変った。
「私たちは、何の為に助産師をやってると思う?」
「……それは、産れてくる赤ちゃん、新しい命の手助けをする為です」
「それも一理ある。けど、母親の命を守る職業でもある。赤ん坊が出てくるのを手助けすると同時に、母親の命を守らなくちゃいけない。だから、手術室でのお前の態度は助産師失格だ。気を失って、これから胎盤が排出されるっていうのに、頭に血上らせて我を失って。胎盤が排出される時、不正出血があれば母親の命だって危ないんだ」
「…………」
「だから、手術室から追い出した。頭、少しは冷えたか?」
「……すみませんでした」と謝って、私は強く唇を噛んだ。
 赤ちゃんの命、母親の命を預かっている手術室で、我を忘れた自分が情けない。
「なぁ……お前はどうして、この助産師って職種に男性がいないと思う?」
「……性器を見られるのが嫌だから」
「バカタレ」と先輩はゲンコツで私の頭を殴った。
「それじゃ産婦人科の医者は全て女性になるだろ」
「あ……そっか」
 先輩が缶ビールをテーブルに置いて立ち上がった。
「先輩、答えは何ですか?」
 私の問いにしかし、先輩は答えてはくれなかった。
「そろそろ引き継ぎの時間だ。お前も、最後までしっかり見てやれ」
 ……見てやれ?
 私も缶ビールをテーブルの上に置き、ナースシューズを履いた。

 休憩室を出ると、外から患者さんが覗いても見えない位置にある、引き継ぎやミーティングを行うテーブルの上が片付けられ、白い箱が置かれていた。
「……あ」
「お前もわかってる通り、あの子はこれから『廃棄物』として処理される。親に死に顔を見せることはできない。遺骨も渡せない」
 人間なのに、廃棄物。私は血が出るほど強く唇を噛みしめた。
「私たちはさ、普通に街を歩いていても、人間だって認識される。世界中を歩けば、世界中の人から人間だって思われる。でも、この子は違うんだよね。人間だったってわかってやれるのって、産み落とした母親と、私たちしかいないんだ」
「……はい」
「私は、こういう子を人間として送り出してやりたい。この子を本当にわかってあげられるのは私たちだけしか、いないんだからさ」
「…………はい」
 リノリウム張りの床を鳴らしながら、ゆっくりテーブルへと近寄る。
 テーブルの回りにいる助産師達は、皆が同じように暗い表情を浮かべ、休憩室から出て来た私たちに視線を注いだ。
 重たい空気が肌に刺さる。皆は無言で、けど考えていることが同じなんだってわかった。
 箱の中には脱脂綿と白い布にくるまれた、もう白い赤ちゃんが瞳をぎゅっと瞑って眠っていた。
 一瞬だけど、オギャーって泣いたんだよね。
 精一杯生きようとしたんだよね。
 よくがんばったね。……偉いよ。
 愛しく思い手を伸ばしたけど、先輩に止められた。
 小首を傾げると先輩は「移るよ」と眉をひそめて言った。
「感染症ですか? 洗ってないんですか?」
「ちゃんと洗ってるよ。移るのは情だよ。これからやらなきゃいけない事考えると、やめておいた方がいい」
 ――廃棄、しなきゃいけないんだよね。
 納得はできないけど、苦痛で歪んだ先輩の顔を見ていたら、自然と手が引っ込んだ。
「黙祷」
 先輩が号令を掛けると、皆が一斉に俯いた。
 私も目を瞑り、両手を胸の前で合わせる。
 暗闇の中、この子が生まれてきた瞬間が、克明に蘇る。
 手の中に収まる程小さな体躯を力一杯振るわせた赤ちゃんは、まだ私の耳元で泣き続けている。
「……ひぐっ……ひぐっ……」
 ずるずると鼻水をすする私の音が大きく響く。
「……泣くな」と黙祷を終えた先輩が、私の頭にぽんと手を乗せた。
 私はまだまだ助産師としては未熟で、何も知らない。
 けど、一つだけわかったことがある。
 助産師という職業は、命が産れる瞬間だけに立ち会うわけじゃない。
 再び目を開いてみても、赤ちゃんがくしゃっと顔を歪めて声を上げはしなかった。
 木箱の横には届け出用紙が無造作に置かれていた。
 死亡届けと、廃棄処理届け。
 二つとも人間だった物の証明書。
 それを意識的に視野から外す。

 引き継ぎしている間、何度も白い木箱に入った赤ちゃんを見たけど、最後まで動くことはなかった。
 夜勤のナースと入れ替わる時に、先輩が白い木箱を運び出した。私も付いていこうとしたけど、先輩は無言で首を横へ振った。
 休憩室に戻り、開けたまま放置されていた缶ビールを一気に胃に流し込んだ。
 ビールは炭酸が抜けて、温くなっていた。

 私服に着替えた後、先輩に飲みに行かないかと誘われたのでついて行くことにした。
 前に来たことのある、あの焼鳥屋さん。ビールの一杯目を頼むと、私は前から気になっていたことを思い出した。
「先輩って、どうして師長って呼ばれるのが嫌いなんですか?」
「ああ? それは――」彼女がおしぼりで軽く口元を拭う。「私達の職場にはさ、母親の痛みを分かってあげられる奴がいればいい、少しでも多く産まれる命の手助けを出来ればいいと思ってる。それには、上も下も関係ない。けど、師長って職に就くと色んなものがくっついてくる。助産師として正しくても、師長として間違っている、だからもう少し考えて行動しろってね。
そこんとこ、男性には分からないんだよ。
 私はね、一人の助産師として、何にも捕らわれずにお産の手伝いをしたいんだ。だから、師長って肩書きは好きじゃない」
 立場上のしがらみがどういうものが、正直私にはわからない。でも、母親の痛みを分かってあげられて、多くの出産を助けてあげたいという気持ちは、十分に理解できた。
 痛みを真に理解する。
 それが、助産師が男性には向かない職業だっていう理由なんですね? 先輩。
 ジョッキが運ばれ、先輩と私は空元気を出してグラスをぶつける。
 先輩の瞳には相変わらず色がなく、死んだ目をしていた。今日の出来事は先輩の中で相等こたえたようだ。
 う〜ん。今夜の先輩は前よりも荒れるだろうなぁ……。
 彼女が酔って潰れたら、額に『魂』と書いてみよう。
 そうすれば、再び彼女の目に魂が戻ってくるかもしれない。




 あとがき
 ここまで読んで頂き誠にありがとうございます。
 本作は助産師に直接取材をして書いた短編ではありますが、基本はフィクションであり、実際の看護師や職場、内情とは一切関係ありません。

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