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深淵に咲く



01

 まだ真新しい紺のセーラー服に身を包み、肩まである髪の毛が、ため息をつく度に揺れる。授業中の教室の中で浮かない顔をしているのは、特別彼女一人だけというわけでもないが、ため息をついているのは、その少女だけだ。
「美優(みゆう)さん? どこか具合が悪いんですか?」
「い、いえ。大丈夫です」
 先生に声をかけられ、美優はふと我に返り慌てて応えた。
 美優は先生が黒板にチョークを走らせたのを確認し、再び頬杖を付き空中に視線を泳がせてため息を吐き出した。
 美優が中学に上がったばかりのこの時期、託児所はとある深遠な問題を抱えていた。
 職員はそのことで頭を抱え、美優も同じく学校へ行き、黒板とにらめっこをしていても集中できずに懊悩(おうのう)としていた。
 深遠な問題――託児所の子供達が、最近新たに預けられた一人の女の子によって傷つけられているのだ。
 ある時は平手で三歳下の子を何回も叩き、またある時は箒で五歳下の子を殴ったりもした。その子が暴力を振るったことに一体どんな理由があるのか、美優には検討もつかないが、例えどんな理由があろうと他人を傷つける行為は良くはない。
 もちろん託児所職員は「暴力を振るってはいけません」とその女の子を何度となく叱ってはいるのだが、女の子の行為は留まる気配がなく、逆に悪化の一途を辿っている。
 女の子が木製の椅子を振り上げて児童に殴りかかろうとしているのを職員が発見し、危ういところで取り押さえたということもあった。
 このままでは、子供たちの心に癒えることのない傷ができてしまうかもしれない。
「どうにかしないとまずいよなぁ」と美優は独り言ちるが良い打開策は見つからない。
 ――何も今、この時期に問題を起こさなくても……。
 誰にも気づかれぬよう、美優は小さくため息をついた。
 彼女がそう憂いているのは、一月後に託児所の子供達全員で児童公演を行う予定があるのだが、このまま問題の女の子が他の子に暴力を振るう事態が続けば、公演中止になってしまう可能性があるからだ。
 公演が目前に迫っているということで、子供達は公演する演劇を既に練習している。中止になってしまえばそんな子供達の努力が水の泡となってしまうだろう。
 それともう一つ、この公演には美優の、ごく個人的な思い入れがあった。
 今年の児童公演に使う脚本を彼女自らが執筆しているのだ。
 美優は座席からそう遠くなく、あまり近くもない窓の向こう側を眺め、もう一度ため息をついた。

 学校が終わると美優はいつも通り託児所へと向かった。彼女は平日の学校帰りには決まって託児所へ赴き、子供達の面倒を見ている。それは自分がお世話になった託児所への、ささやかな恩返しの意味合いもあるのだが。
 教会の重い扉を開き中へ入ると、美優は女性職員に声を掛けられた。
「美優ちゃん。いらっしゃい」
「シスター。……今日の被害者は何人だったんですか?」
「あらよくわかったわね。全部で二人」
 美優は渋い顔をしてため息をついた。
「犯人は茜(あかね)ちゃん、ですよね……」
「そう。ああ……あの子はどうしてこんな酷いことを何度も繰り返すのでしょうか」
 美優がシスターと呼んだ女性は両手を合わせ、祈るように頭を下げた。
 彼女は敬虔な信者なのだろう。金糸で刺繍された白い衣を身に纏い、ヘッドドレスが髪の毛を隠すように頭部を覆っている。
 その上から更に、シスターの体を縛る金属の付いた皮製の拘束具が巻かれていた。
 ――拘束具を付ける癖がなければ普通の人なのに、と美優は思った。
 託児所の子供が悪戯をしたり、喧嘩をしたり、壁に落書きをしたり、何か悪さをした時にシスターは決まって拘束具を身に付ける。
 拘束具を身に付けるのは、子供達の冒した罪を彼女自身も一緒に償うという意図が込められているのだろう。だが、美優が初めてその行為を目の当たりにした時は、拘束具を巻き付けられたシスターの威圧感に怯え、声にならぬ悲鳴を上げた。シスターは慌てて美優を宥めようと頭を揺らしながら近寄ってくるが、その不吉なシルエットはドジョウが二足歩行しているようにしか見えなかった。
 美優は彼女が一歩一歩近寄る度に、拘束具のジャラジャラと鳴る金属音と、ドジョウのシルエットとで神経が激しく摩耗し、ついには気を失ってしまった。
 美優は度々シスターの拘束具について、他の子供達に悪影響があるのでは? と彼女へ一言告げるべきか悩んだことはあったが、それは彼女の信仰に関係する問題でもある。気軽に意見するべきではないのかもしれないと、そう結論づけ彼女の拘束癖についてなるべく触れぬようにしてきた。
 託児所の職員はシスターのそんな悪癖をどう理解しているのか。誰も彼女の話題を口に出すことはない。
 シスターが子供たちの罪を一緒に償うのは一日限り。何事も無ければ次の日には拘束具を外すのだが、ここのところ彼女の拘束が解かれた所を、美優は見ていない。
「じゃ、私はちょっと茜ちゃんに会ってきます」
「それはそれは。彼女を怒らないであげてね」
「はい。話を聞きたいだけなので、大丈夫です」
 断言したが、怒らない自信はあまり無かった。
 美優はシスターや他の職員から噂は聞いていたが、入所したばかりの茜と直接話をしたことは一度もなかった。
 どんな人物なのか分からないが、もし平気で他人を傷つけても何とも思わないような人なら、自制できずに怒ってしまうかもしれない。
 美優は両手で髪をかき上げると、その手を後頭部に固定し苦笑を浮かべた。

 茜は部屋の中心にいた。彼女は綿のスラックスに白のパーカーという――託児所から支給された衣類なのだろう、女の子にしては少々ラフな出で立ちだった。
 彼女は地面に突き刺さっているかのように直立したまま、全く動く気配がない。顔にかかった髪の間からちらり見える瞳は心なしか虚ろだ。室内に同化するような彼女の姿に、美優は息を飲んだ。
 ――この子は本当に、他の子供達を傷付けているんだろうか?
 美優は開けっ放しになった扉をノックして自らの存在を相手に伝えた。そうしたのは茜の持つ侵しがたい雰囲気に飲まれ、声が出せなかった為だ。
 弱々しい光を帯びた瞳が美優を捉える。
「……誰?」
「あ、初めましてだね。私は美優。ここの最年長よ」
 相手の雰囲気に飲まれないよう声を張った。茜の声は美優が思った程、細いものではなかった。声だけを聞けば快活な少女を連想するだろう。しかし、彼女の表情には感情の類は一切見受けられない。
 茜の声と表情とのギャップに、美優は息を飲んだ。彼女の後ろに別の何かがいて、それが声を出したのではないかと思えてしまう程に無表情な彼女を目の当たりにして、美優は戸惑っていた。
「茜ちゃん、だよね?」声を出し、思考に纏わり付くモヤを払拭する。「ちょっと話を聞きたいんだけどいいかな」
「わたしがいいよって言わなくても、話を聞くんでしょ?」
 彼女の物言いに美優は憮然としながらも、目の前にあった木製の椅子に腰を掛けた。
「単刀直入に聞くけど、茜ちゃんはどうして他の子を傷つけるのかな?」
「……たんとうちょくにゅうって何?」と茜は首を傾げた。
「ええっと……。余計な話をしないでっていう事よ」
「余計な話って、例えば?」
「今日はお日柄も良く、とか。ううん、そういう話は別の機会にしよう。まず私の質問に答えて」
 美優は相手の言葉を振り払うため、頭を軽く振った。茜のそれは裏表のない純然たる疑問符だった。故に、子供の世話係たる美優の食指が働き、思考が逸れてしまった。
 今はなるべく本題から逸れないようにしないと。美優はそう自分を戒めた。
「どうして他の子を傷つけるの?」
「……手に入れるため」と茜は一瞬言葉に詰まった。それを、美優は見逃さなかった。
「手に入れる? 何を?」
「わたしの夢。手に入れるために。こうすれば手に入る。お母さんも、お父さんも、欲しいものを手に入れるために、こうしてきた」
 中にある感情全てがどこへと抜け出してしまったかのように、茜は無表情だった。
「でもね、人を傷つけるのは良くないんだよ」
「……それはわたしもわかっている。けど、手に入れたいの」
「何を、手に入れたいの?」と、少々怒気を孕んだ声を発した。自分の願いの為だけに、回りの子を傷つけているという彼女の言葉を聞いて、美優の頭に血がのぼってしまった。
「――花」
「花?」
「そう、光のない夜に咲くの」
「それが欲しいの? 何なら、私が商店街の花屋で買ってくるけど」
「お店には、売ってない」
 表情を曇らせて茜は首を振った。
「どうして?」
「一晩しか、咲かないからだと思う」
「そんな花ってあるの?」と美優は眉をひそめた。
 光のない夜に咲く、それも一晩限りの花。そんな花は存在しているのだろうか。美優は脳内に花の像を思い浮かべてみたが、どうにも上手くいかない。自分の知る花がごちゃ混ぜになり怪物じみた形へと変化したところで想像を断念した。
「ある。絶対に」
 茜の声に初めて抑揚が生まれた。
 彼女の反応を見るに、童話か何かに登場する花を現実にあるものだと信じ込んでしまっている可能性があるなと、美優は思った。しかし、夢をぶちこわすような発言はできない。サンタクロースなんて本当は居ないんだよと、サンタさんを信じている子供に教えても泣くだけだ。最悪心の傷となってしまうだろう。それは、絶対に良くない。
「人を傷つけてでも、欲しい物なの?」
「……そう」
 ――さてどうしよう。
 美優は目の前にいる彼女の瞳を見つめ感じた。
 本当は人を傷つけたくないのではないか、と。
 彼女は「傷」という言葉に度々動揺し、返す言葉が半拍遅れる。虚ろな瞳が微かに揺れ動き、唇が閉じず開かずの中間を行き来した。しかしそれは一瞬の出来事であり、美優の見間違いだったかもしれない。
「お父さんも、お母さんも、そうやって手に入れた。欲しいものを、手に入れたんだよ」と茜は意味ありげな瞳を美優へと向けた。
 託児所の職員ならば茜のこの表情を『挑戦的』と感じた事だろう。しかし美優には、別の言葉を発したいのに、口にできなくて苦しんでいるような表情だと思えた。
「それってどういう事?」
「……」
 美優の言葉に返さず、茜は天井を見上げるとそのまま動かなくなった。

「花、ねぇ」
 口に出して考えるが、やはり脳から答えははじき出されなかった。
 美優は部屋を出て顎に手を当てながら歩いていると、ジャラジャラと金属の鳴る音が聞こえてきた。
「美優ちゃん、どうだった?」
「ああ、シスター」美優は表情を暗くし、「だめでした」と首を横へ振った。
 落胆する美優に、シスターは笑顔で「お疲れ様でした。ありがとうね」と労(ねぎら)った。
「ああ、そうそう美優ちゃん。台本の方はもう上がりそう?」
「あ! ああ……う、うう〜」
 美優は自らの筆が止まっている事を思いだし、呻きながら頭を抱えた。
「あらあら、その様子だとあまりうまくいってないみたいね。けど、締め切りまでがんばるのは良いことよ。締め切りまでがんばって、もし完成できなかったら、私が何か代りの戯曲を用意するから。体を壊すくらい無理はしないようにね」
 ――体を縛るくらい無理をするのはいいのだろうか?
「あ!」
 全身に電気が流れたように、美優は素っ頓狂な声を上げた。
「そうか……。それならそうすればいいんだ」
「あら美優ちゃん、何か閃いたのかしら?」
「はい、全部繋がりました!」
「繋がった?」
 シスターの自由な首が横に傾いだ。彼女の動作につられ拘束具が音を鳴らした。
「今回の舞台ですが、脚本全部書き直します」
「ええ?」
「それと、主演は茜ちゃんで行きます!」
 美優の言葉にシスターは目を見開いた。
「でも、美優ちゃん。茜ちゃんがやってくれると――って、ちょっと待って」
 シスターの言葉が終わる前に美優は走り出した。
「すみませんシスター、このままだと忘れそうなんで、急いで帰って執筆に取りかかります!」
 引き留めようと擦れた声を出すシスターに手を振って、美優は風のように託児所を飛び出した。シスターは拘束具を巻き付けているために手を振れないので「がんばってね」と彼女を笑顔だけで見送った。

 美優の脚本は締め切りに何とか間に合った。配役も無理なく託児所の子供全員に割り振ることができた。彼女は丁寧にも大道具、小道具、衣装とそれぞれノートに細かくラフを書いて託児所の所長へと提出した。
 美優が残念に思ったのが、村の公民館で公演を行うため、照明に力を入れることができない点だった。そこには強いこだわりを持っていただけに、なんとかできないかと所長に詰め寄った。美優のあまりの熱意に所長は何度も頭頂部まで禿げ上がった頭を撫で、渋々といった様子で「やれるだけやってみるけど、期待はしないでね」と首を縦に振った。
 シスターは茜が主役を演じてくれると思っていなかったようだが、美優が交渉してみると案外すんなり首を縦に振った。
 依然として茜が人を傷つけて公演中止になる可能性も存在していたが、新しい脚本での舞台練習が始まると同時に――練習に熱が入ったからだろうか――茜が人を傷つける事はなくなっていた。
 全てうまく行く。美優はそう思った。
 だが、美優の思いも寄らぬ所で問題が発生してしまった。

 終盤の暗闇を抜けるシーンで、茜の台詞が一言あるのだが、何度繰り返しても彼女は台詞を口に出すことができなかった。
 そのシーンになると決まって俯き、口を何度も開こうとするのだが力なく閉じてしまう。
 台詞を覚えていないのではなく、覚えているのだが何故だか口に出すことができない――そんな様子だった。
 このままでは舞台に支障を来す。そう思った職員は美優に再三台詞を変える、または配役を変えるよう迫ったのだが、美優は断固としてそれを拒んだ。
 いつか言えるだろう。美優は期待を胸に抱き、毎日舞台の稽古を見守った。
 しかし美優のそんな期待も空しく、まるで呪いに掛けられたかのように茜は公演当日まで、終盤のシーンのその台詞だけを口にできなかった。

02

 児童公演は村の公民館を借り切って行う。公演の二日前から公民館への大道具の搬入が大人の手により行われていた。
 収容人数三百名余りの、普段はあまり使われない錆びや塗装の剥げが目立つ公民館は、公演が近づくに連れ人の出入りが激しくなっていった。それに合わせ、初めは冷気を帯びていた建物の内部も、次第に息を吹き返したように本来あるべき温もりを取り戻していった。
 美優がセットを終えた舞台を見たのが当日だった。
 初めて見る、自分が創り上げた舞台を眺めた時、彼女の胸に感動がこみ上げた。それと同時に、自分の我侭に付き合ってくれた沢山の人達に、一人一人頭を下げて回りたい気分にさせられた。
 所長はこの舞台の為に、近隣の町から照明道具を借りてきていた。美優が丁度観客席に居る時に、照明道具を搬送している所長と目が合った。
 所長は「これで美優ちゃんの思い描く舞台ができるね」というように、にっこり美優へと微笑んだ。
 それに美優は鼻がつんとなり、目頭を熱くした。
 ――だめだめ。まだ始まってもいないんだから、感動するのは早い。
 美優は頬を張り、緩んだ涙腺に喝を入れた。
 公民館の楽屋では子供達がそれぞれの衣装に着替えを始めていた。
 普段はうるさい程賑やかで笑顔が絶えない子供達は緊張故に、まるで葬式に参列するような沈んだ面持ちとなっていた。
 動きも緩慢で、震えている子さえいる。
 ――駄目だこりゃ。みんなゾンビになってる……。
 どんよりとした楽屋を見渡して軽い頭痛を覚えた美優は、痛みを抑えるようにこめかみに指を当てた。

「いいみんな。緊張は誰だってするものなんだよ。もし失敗しても落ち込まないでね。自分たちが練習してきた成果を全て出し切ろう!」
 緞帳の下りる舞台上では美優を中心に、小学一年生から六年生までの小さな俳優達が円陣を組んでいた。子供達はもう逃げ出せない、後戻りはできないと腹をくくったのだろう。辺りには集中力の高まった、良い緊張感が漂っている。
 美優は内心、茜が台詞を口にすることができるだろうかと、不安で仕方がなかった。けれどそれをおくびにも出さず、茜を見て「出来ても出来なくても、私は茜ちゃんを責めないから、精一杯やっておいで」と彼女を軽く抱きしめた。

 公演への人の入りが予想よりも遙かに凄まじく、美優は一緒に見ようと約束していたシスターの姿を見つけ出すのに手間取ってしまった。
 右へ左へ流れる人に体をぶつけられながら、美優はようやっと控え目に手を振るシスターの姿を発見した。そこにはパイプ椅子が二つ、まるで美優とシスターの指定席のように空いていた。
 美優はシスターの元へと駆け寄って、人混みでもまれ荒くなった息を整えた。
「ごめんなさいシスター。座席、ありがとうございます」
「いえいえ。でも、立ち見の人もいるみたいだし、主催者が座っているっていうのは、なんだか申し訳ないわねぇ」
 そう言われ美優は辺りをぐるっと見渡した。
 数時間前のホールは美優にはとても広く思えたが、今は違う。
 平坦だったパイプ椅子の絨毯が、ひしめき合う人の黒い頭が並び波打っている。ホールの壁が人を押し潰さんと圧迫する。むせ返るほどの化粧や香水や防虫剤のにおいがごちゃ混ぜとなり嗅覚を狂わせる。ざわめきは衣服に吸収され、吸収されない低音域が腹に響く。
 シスターを探すことに専念していた美優はここへきて、どれほどの人が公民館に押し寄せているのかを目の当たりにした。そのあまりの人の多さに目を回してしまいそうだった。
 ――これだけの人数が集まったということは、この村の人全てがここに集結したことになるんじゃ?
 美優は一から作り上げた自分の舞台を、村の住人全員に見てもらえることを喜びつつも、上演される演劇が自ら執筆した脚本だと思うと顔から火が出そうになった。
「安心して。ここにいるお客さんからお金は貰ってないし、第一自分たちの子供や孫の活躍を見に来てる。誰も公演の完成度を見には来てはいないわ」
 耳元で囁いたシスターの言葉に、美優は憮然とした。
 ――それじゃまるで私たちの作る舞台が全然駄目みたいな言い方じゃない。けど確かにシスターの言う事は一理ある。
 発言に悪意はないのだろう彼女の笑顔を見て、美優はのど元にせり上がった反論を飲み下した。

 しばらくすると、場内アナウンスと共にゆったりと天井の照明が落とされた。
 照明が消えたにも関わらず窓に取り付けられた暗幕から光が漏れ、ホールは美優が思ったほどに暗くはならなかった。
 この舞台は暗闇が大事なのに……と、美優は非常に残念に思ったが、このホールはあくまで多目的であり、演劇舞台公演用ではない。
 緞帳(どんちょう)は横開きだし、天井が低いので照明を吊す為のサスバトンもない。ステージ横と前からのピンスポットライト、ステージ足下の地明かり(フットライト)は設置できたが、それでも美優は納得がいかなかった。
 暗闇。照明の光。それらが織りなす幻想的な影。
 美優の思い描く舞台を作るためには、残念ながら村の設備だけでは到底足りなかった。しかし、現状がどうあれ所長が身を粉にして集めてきた照明装置である。そう考えると、美優は設備への不満を飲み下すしかなかった。
 ――勝負は照明じゃなく、みんなの演技だ!
 美優は気落ちする前に考えを振り払った。
 上演開始のブザーが鳴るとホールに集まる皆が口を閉じ、唾を飲み込むのさえ躊躇われる程の空気が辺りを支配した。
 一人が耐えきれずに咳払いをすると、違う数人がそれに合わせて同じように咳払いをする。
 皆、居心地が悪いにも関わらず暗黙の了解の元、無音を守っている。
 それがまるでシスターのようだと、美優は思った。

    ●

 ホール観客席側からピンスポットライトが灯される。
 それに合わせ、唐草色の着物を纏った前向上役の少年が上手(かみて)から姿を現した。
 舞台上手側に前向上が袖を振り、優雅に腰を下ろす。
「これは、深い深い森の中にある集落で生活する人々のお話です。この森では木の実や動物がよく採れ、何不自由ない暮らしが営めました。
 この森には電気を使った機械などは一切ありません。とても原始的ですが、森の住人は不自由しなかったのです。森を出れば機械に囲われた、森の暮らしよりもよりよい生活を営める街が広がっています。ですが、森の住人達はそれを知りません。この森での生活が全てであり、幸せはここにしかないと信じているから、森を出ようとも思いませんでした。
 このお話に登場する老人から子供まで、現在この森の集落で生きている全ての人達は、今の生活に疑問を抱くことはありません。物語の主人公『ハナ』も同様に、今ある生活に疑問を抱くことはありませでした」
 片手に持つ閉じた扇子をピシャリと地面へ叩きつけた。
「物語は鬱蒼とした森の中。集落伝統の、森の精霊を讃える宴から始まります。どうか最後までごゆるりと、物語をご堪能ください」
 前向上がお辞儀をし、ピンスポットライトが絞られる。
 暗転。
 前向上が上手(かみて)にはけると同時に緞帳が横へ開いた。
 背景には鬱蒼とした森の木々が描かれた木の板が取り付けられ、その奥には白い(ホリゾント)幕がある。
 子供達は村人に扮し、たき火を囲っている。
 それぞれが毛皮で作られた衣服を纏い、長い棒を手にしていた。

    ●

 少年が前向上を終えると、ホールはわき上がるに拍手の音で揺れた。バケツをひっくり返した豪雨のような拍手に混じり、美優も我を忘れ力一杯手を叩いた。
 滑り出しはよかった。彼が語る前よりもさらに観客の空気が鋭く引き締まっている。それは観客が舞台へと集中した証しだった。
 彼の前向上への起用はやはり間違いではなかったと、美優はほっと胸をなで下ろした。
「あの子、ずいぶんと上手かったわね」と美優の耳元でシスターが囁いた。
「はい。物語は導入が命です。最初でうまくいくか躓くかによって、舞台の善し悪しが決まると言っても過言ではないでしょうね。だから、一番上手く語れるあの子を選びました」
 美優は息を殺しながらも、多少得意げになって返した。
 前向上は演技力よりも、語りのテンポと正確さが要求される。全く動かずに語りだけでお客を引きつけなければいけない。この演劇の中で最も重要な役と言えるだろう。
 シスターが得意げな美優を見て優しく微笑んだ時、緞帳が開ききった舞台から大音量のBGMが轟いた。それに驚いたシスターが弾かれたように肩を振るわせた。

    ●

 コンガがリズムを刻み、シロフォンが柔らかいマレットで弾かれ、体のリズムと同調するような、心地良いメロディが奏でられている。
 焚き火を囲う村人達はコンガに合わせ足を踏む。
 シロフォンのメロディに上半身が同調する。
 足下にある地明かりは光量が絞られ、舞台上の子供達を淡く照らす。
 舞台奥のホリゾント幕には子供達の、
 優雅に舞わす腕が、
 つられ自立的に踏み出す足の動きが、
 影となって映し出された。
 BGMにシンコペーションを感じ、生きている様を小さな体で表現する。
 主旋律のパターンが繰り返される随所で、村人の手にした棒が地面を叩く。

 子供達の影もまた物語を紡いだ。
 背景の木々と子供が絡み合い様々な生き物がホリゾント幕に現れる。
 それは悪魔のようでもあり、
 それは天使のようでもあり、
 見たこともない恐ろしい獣のようにも見える。
 その中を村人達が踊った。

    ●

 踊りが終了すると、ホールが再びドッと沸いた。
 合いの手を入れられる場面ではなかったが、それが観客達の素直な気持ちだった。
 拍手のおかげで、初めの台詞が全く聞き取れず、拍手が鳴り止むまで待ってからもう一度言い直すという事態になってしまった。
 美優は想定外の拍手に半ば呆然としながらも、胸に熱いものがこみ上げ体が震えた。

 物語は中盤までは練習通りに進んだ。
 もちろん、台詞や動きのミスなどはあったが、それは子供達の活躍を目に焼き付けようとやってきている大人達の集中力を削ぐ程のものではなかった。
 子供達も、この舞台を成功させるために精一杯になっている。
 薄暗い舞台袖では誰も口を開くものはおらず、じっと劇の進行具合を目で追っていた。
 茜も例外ではない。彼女も出番になるまで舞台袖に置かれた椅子に座ることもなく、目を瞑りながら声を前に出さず、台詞を呟いていた。

    ●

 場面は森の外からやってきた住民に、森の民が支配された。
 今まであった村のしきたりは捨てられ、森の外の法律がもたらされた。森を出る事を知らなかった住人達に、外からやってきた人達は村を出るという選択肢を与えた。
 この森に住む少女ハナにも外へ出る権利が与えられた。
 しかし、森を出るのがいいか残るのがいいか、彼女は決められずにいた。
 外へ出る派と留まる派で意見が衝突し、いつしか村には険悪な雰囲気が漂っていた。

 濃い茶色の短パンに同色の半袖を身に纏ったハナが、下手(しもて)から舞台中央へと歩く。
 アクリル製の透明な箱が中央に置かれている。注意を引かぬようひっそりと草むらの影にある三十センチ四方のそれは、場面転換の際に置かれたものだ。
 ホリゾント幕には、満月を模した光が灯されている。
 ピンスポットが上手(かみて)に点る。
 上手に居た村人Aがハナへ話しかける。
「ハナちゃん、村の外に出るのかい? 村の外はいいよぅ。なんたって天国なんだから。そう、村の外から来た人が言ってたよ」
「天国?」
「そう、天国。こことは違って、なんでもあって、なんでも揃っている、天国のような場所なんだってさ」
「でも、この土地は昔から育ってきた土地です。離れるのは寂しくないんですか?」
「寂しいさ。寂しいけど、よく見てごらんよ。ハナちゃんはまだ決めてないようだけど、ここに残るって選択をした人を見たかい?
 動植物を集め、動きが止まったら鞭で打たれる。休むことさえ許されない。もう何人も苛酷な労働に耐えきれなくなって死んでいるよ。ここはもう昔と違って地獄だよ地獄」
「地獄……ですか」
 上手のピンスポットが消え、下手(しもて)に点る。
 下手にいた村人Bがハナへ話しかける。
「ハナちゃんは、この村に残るんだろ?」
「いえ、まだ決めてないです」
「だったら絶対に森の外へ出てはいけない。外から来た人間は天国だって言ってるけど、そんなの嘘っぱちさ。天国についた瞬間裏切られて、永遠と重労働をさせられるんだ。ここと同じで、体に無理がたたって死ぬ奴だっているだろう」
「つまり、内と外のどっちを選んでも地獄だって言うことですか?」
「まあ、そうだな。だけど天国を選んで裏切られるよりも、最初から地獄を選んでおいたほうがいい。心が、違う」
「心……ですか?」
「そう。天国へ行って地獄に堕ちた奴らは心が折れちまってるだろうね。村の掟を破って出たのに、天国じゃなくて地獄に着くっていうんだから。……かわいそうに。どっちが地獄かって言うなら、森の外に出て期待を裏切られた奴らの方が、地獄かもしれないね」
 下手のピンスポットが消え、上手に点る。
「ハナちゃん、それは嘘だよ。誰も死んではいない。外は天国なんだ。その証拠に誰一人帰ってこないだろ? それは向こうが天国だからさ。内部に留まった、昔の生活を変えられない老人達の僻みだよ」
 上手のピンスポットが消え、下手に点る。
「それは嘘だ。みんな重労働に科せられて死んでいるから、戻って来たくても戻ってこれないんだ! 若者はみんな昔からの知恵が無いから、外から来た奴らにいいように騙されてるんだ」
 上手と下手にピンスポットが点る。
 村人AはBを、村人BはAを指さす。
「「嘘をついているのは向こうだ!」」
 両方のピンスポットが消え、中央に点る。
「……内を選べば地獄。外を選べば天国という名の地獄。選ぶ答えは違うのに、どうして結末は一緒なの?」
 ハナはうずくまり、両手で頭をかかえる。
「私は選びたくない。どっちも、どっちも嫌だ。地獄なんて行きたくない。まだ……死にたくない!」
 ハナがすすり上げると、上手と下手からそれぞれ「クスクス」と小さく笑いながら少女が二人飛び出した。
 緑色のタイツに半袖、所々に葉を模した文様が小さく描かれている。頭には月桂樹で作られた装飾冠(リース)が乗せられている。
「こんにちは、ハナちゃん」
「あなた達は? どうして私の名前を知っているの?」
「私たちは森の妖精。私たちは何でも知っている」
 得意げに胸に手を当てる。別の妖精が話しかける。
「どうして、ハナはどちらも選びたくないの?」
「私はまだ、まだ死にたくない。地獄へなんて行きたくない。こんなの嫌だ。今までの穏やかな暮らしを続けていたかった。どうして、それができないの? みんなはどうして言い争うの? 昔は、もっと仲が良かったのに……。昔に、戻りたいよ……」
「昔には戻れないわ」
「いやだ、戻りたい!」
「ハナはどちらかを選ばなきゃいけない」
「……いやだ、選びたくない」
 妖精AとBは「クスクス」と笑い、ハナの回りを飛びまわる。
「仕方ないわね。ハナの為に一つだけ道を用意してあげる」
「……ほんと?」
 ハナが顔を上げると、舞台の照明が消える。
 妖精が後方を指さすと、ホリゾント幕に光の道が灯される。
 妖精二人の姿が闇に溶け込んで見えなくなる。
「本当よ」
「これより進んだ森の奥」
「光の届かぬその先の、黄昏に花が咲いている」
「それに願いを捧げると、何でも夢を叶えてくれる」
「だけど、辛い道になるわ」
「振り返っちゃいけないの」
「たとえどんな事があっても」
「見ても」
「聞いても」
「触っても」
「振り返っちゃいけない」
「それでも……」
「「あなたはこの道を選ぶかしら?」」
 妖精二人の声が重なる。その声にハナは頷き返す。
 ハナは立ち上がり歩く。
 場は一筋の小さな明かりしかない。
 恐る恐るハナは暗がりを歩き、時折躓いて転んでは、立ち上がりまた進む。

 上手にピンスポットが点る。
「もうそろそろ天国に着くんだな……。村に残るって言った奴らは頭が悪い。新しい良い考えを積極的に取り入れなきゃ駄目だ。まったく、俺達のように賢く生きなきゃ――」
 槍を持った人影が村人Aの前に現れる。村人Aは慌て、両手を大きく広げる。
「…………どういう事ですか? 俺達は天国に、ここは天国だって聞いたから!」
 人影が村人Aに音もなく近づく。手を人影へ向けめいっぱい伸ばす。
「やめろ……死にたくない! やめてくれ!」
 槍で村人Aの胸を突き刺す。村人Aの絶叫。
 それを聞きハナは耳を塞いだ。
 ピンスポットが下手へと移る。
「外に出て行った奴らは知恵がない。俺達はここでしか生きられないのに。古くからのしきたりでそう決まっている。例えここが地獄であっても、俺達が生きていれば、いつかきっと外の奴らを追い出す機会が――」
 槍を持った人影が村人Bの前に現れる。村人Bは立ち膝の状態で唖然としている。
「…………え? どういう事だよ、これ」
 人影が村人Aに音もなく近づく。
「村人を先導し、謀反を起こそうと画策していただって? どうしてお前達がソレを知っている! もしかして、俺達の中に裏切り者が? ……まさか、そんな!」
 槍で村人Bの胸を突き刺す。村人Bの絶叫。
 ピンスポットが中央に点る。
 ハナは耳を塞いだままうずくまった。
「もういやだ、もうやめて! お願い……誰も死なないで、誰も殺さないで!」
 妖精の声が聞こえるが闇に隠れて姿は見えない。
「クスクス」
「クスクス」
「もうやめちゃうの?」
「もう進まないの?」
「もう、前が見えないよ。……暗いよ。怖いよ。もう、進めないよぅ」
「あともう少しなのに」
「残念だなぁ」
「ハナは、一体何を求めてここに来たの?」
「ハナは、何故歩いていたの?」

    ●

 ハナ役の茜が、台詞を言えずに必ず止まってしまったシーンへとやってきた。
 ここまでの舞台のできは大変良く、子供達の集中力も途切れた様子はなかった。観客も固唾を呑んで舞台を見守っている。演劇として、全てが非常に良い状態だと言えるだろう。それだけに、茜が台詞を続けられない事によって、ここまで安定してきた舞台が台無しになるのは非常に勿体ない。
 例え、彼女が本番で台詞を言えず止まってしまったとしてもいいように、美優はあらかじめ打ち合わせをしていた。
 ――でも、止まらないでほしいなぁ。
 この舞台には、美優が伝えたかったものが全て込められている。それは、子供達に対してでもなく、客に対してでもない。
 美優は自然と体が硬くなってしまった事に気づき、深呼吸をして脱力させた。
 隣にいるシスターをちらり伺うと、呼吸が止まっているのではないかという程、微動だにせず舞台に見入っている。他の人達も彼女と同様に舞台を見守っている。
 そんな観客達の姿を見て、美優は祈らずにはいられなくなった。
 ――お願いします。全て上手くいきますように。
 美優が祈るように汗ばむ両手を合わせた時だった。
「ったく、これを脚本に選んだ奴は誰なんだよ。子供達にやらせるような内容じゃないだろ!」
 美優の隣にいる男性がホール全体に轟かないまでも、十分に大きな声で悪態をついた。
 それを聞いた観客は声を発した男性へと一斉に視線を向けた。
 視線の大半は『静かにしろ』というものだったが、その中に、彼の声に賛同するような視線も含まれていた。
「……全くだ。子供に生き死にの話しは早い。この脚本を選んだ奴は趣味が悪い」
 老いた男性が小声で同調した。それに美優は体を震わせた。
 脚本を書いたのは紛れもない、美優自身なのだ。
 最初に悪態をついた男の回りで、脚本に対する批判が囁かれだした。
「村人を槍で突いたのって、子供だよな?」
「それって情操教育上問題あるわよね」
「子供に殺しを教えるとは……」
「脚本家はどんな考えを持ってるんだ」
「明らかに、異常だな」
 囁きの一つ一つが美優の心に突き刺さった。
 大人達は、この舞台の脚本を執筆した本人が隣にいるとは知らず、舞台で演じる子供達もそっちのけで批判をしている。
 ――お願い。がんばっている子供達を見てあげて。
 そう願うも、美優の半開きになった口からは何の言葉も出てこなかった。
「この舞台を作った奴に、舞台の上で土下座させたほうがいいんじゃないか?」
「そうね、子供達にもしっかり謝らせないと」
 美優は耐えきれず、舞台上のハナと同じように耳を塞いだ。
 ――もう止めて!
 美優は目から涙があふれ出しそうになり、目を力一杯瞑った。
「黙りなさい」
 美優が塞いだ耳に小さく、しかし凛とした声が伝わった。目を開いて見るとシスターがパイプ椅子から立ち上がっていた。両手を上下に重ね下腹部に当て、批判を続ける大人達を睨みつけている。彼女の行動に、美優は目を丸くした。
 誰一人としてシスターに視線を合わせる者はいなかったが、しかし彼女の声が届いたのか、批判をしていた者達は、まるで狐につままれたような表情をして口を閉じた。
 シスターが椅子に座ると美優は目を潤ませて彼女に頭を下げた。
「シスター、ありがとう」
「いいえ、なんて事ないわ。それに、こんな風にうるさくっちゃ、あの子たちが可哀そうじゃない」
「そうね。あの子たち、すごくがんばってるから。最後までしっかり見て貰いたい」
 シスターは美優に頷き「だから、私たちもしっかり見ましょうね」という風に、舞台へと視線を戻した。
 ――お願い神様。どうか、茜ちゃんが台詞を言えますように。
 美優は再び両手を固く組み合わせた。

    ●

 ハナが舞台中央に座り込んでいる。
 ピンスポットが小さくハナだけを照らしている。
 茜の周りでステップを踏みながら妖精が回る。
「近くには誰もいないわ」
「誰も助けてくれない」
「あなた一人の力でどうにかするしかないの」
 ハナはふさぎ込むように膝をかかえる。
「私、子供だから。……何も出来ない」
 妖精は軽快な口調で、
「いいえ、できるわ」
「やらないだけよ」
「考えないだけ」
「願わないだけ」
「叶えようとしないだけ」
 歌うように言う。
「怖がらないで」
「怯えないで」
「きっとハナは見えるはず」
「前を見れば開けるわ」
 徐々に舞台中央を灯すピンスポットの光量が絞られる。
「私には、できない……」
「恐れないで」
「前を見て」
 妖精が急にステップを止め、空を見上げる。
 ホリゾント幕にある満月が徐々に欠けていく。
「……満月が消えてしまう」
「もうそろそろ時間ね」
 妖精が諭すように優しく言う。
「一人でやるしかないのよ」
「一人でやらなきゃいけないのよ」
「あなたなら出来るわ」
「ハナなら出来る」
「それじゃ――」妖精の声がハモる。「「さようなら」」
 暗がりの中、二人の妖精が飛び立つ。
「私じゃ駄目なの。……もう進めない。誰か」
 ピンスポットからの照明が消える。
 辺りを完全な闇が支配する。
「誰か…………」

    ●

 不意にハナの声が止まった。
 喉の奥から引っ張り出そうとしているが、どうしても唇を通過せず喉の奥へと埋没していく言葉。そのたった一言が何故言えないのか、美優はなんとなく気がついていた。だからこそ、他の誰でもない、彼女の為だけにこの台詞を用意した。
 言えぬまま数十秒が経過し、観客がおかしいと気づき、どよめき始めた。
 上手袖の幕から黒子である職員の顔が覗いている。多分、タイミングを見計らっているのだろう。茜が台詞を言えないのであれば、容赦なく仕掛けのスイッチを作動させる。そう、開演前に打ち合わせをしていた。
 ――やっぱりダメか。
 美優が諦めかけた時だった。
 薄暗い舞台の上に小さな光の粒が反射した。
 ハナ――茜が、俯き泣いていた。
 落ちる涙が暗幕から漏れる光に触れ、煌めいては消える。
 どよめいた観客が、彼女の持つ雰囲気に飲まれ一気に静まった。
「誰か、お願い。たす、けて……。助けてください」
 発した声がホール全体に届いた。いや、実際には届いていなかっただろう。しかし、彼女の演技ではない真実が観客を引き込み、声なき言葉を心へと響かせていた。
 観客は時を、動きを、息をすることさえ忘れた。
「誰か。助けて……助けてよぅ」
 彼女は声を殺して泣いた。
 涙を拭うこともせず、皆に見られているというのに顔も隠さず、眉間に皺を寄せ、唇を強く噛みしめた。
 耐えきれなくなり、ハナが下手へと動いた。
 ようやっと涙を拭い、鼻をすすり、嗚咽を漏らしながら、ゆったりとした歩調で下手へと向かった。
 その時、勃然とあふれ出た七色の光が彼女の背中を照らした。
 舞台の外からではなく、中心から光を放っている。
 それに気づき、ハナが足を止めて振り返る。
 舞台の中心には、アクリルのケースが置かれていた。
 そのアクリルの中に、光の色を変える花一輪が淡く浮かび上がっていた。
 ハナが無言で歩み寄り、アクリルのケースを持ち上げる。
 ホリゾント幕にハナの影が映し出される。
 光は赤から黄、黄から青へと幻想的に色を変える。
 ハナはわっと声を上げた。
 声を上げ、泣きながらアクリルケースをそっと抱きしめた。

03

ハナが深遠に咲く花へと願いを伝え、昔のいがみ合いも分裂もない、平和な村の状態に戻ったところで終幕。
 緞帳(どんちょう)が閉じると鼓膜を突き破る程の拍手が沸きあがった。
 美優もシスターも我を忘れ、手を強く鳴らした。
 舞台は大成功だと言えるだろう。美優は子供達の頑張りに感動し、まるで大河がうねるかのように流れる観客を背に、一人パイプ椅子に座り涙を流した。
 ホールから観客が消えたところで、よしっと気合いを入れて美優は椅子から立ち上がった。きっと腫れちゃってるだろうなぁ。美優は幾分はれぼったく感じられる目を押さえながら女子トイレへと駆け込んだ。
 うう……やっぱり腫れてる。鏡を見ながら、赤く膨れた瞼を何度か突っつく。洗面台の水を流し、ハンカチを濡らして目に当てる。ハンカチに染みた水の冷たさが、とても心地良い。
 目にハンカチを当てていると、個室の向こう側から、カチャカチャと、金属がぶつかる音が聞こえてきた。
 何の音だろう?
 聞き覚えのあるそれに、美優は首を傾げる。なんの音だっただろう。この金属音は確か……、
「あら、美優ちゃん。ここに居たの?」
 目をハンカチで押さえる美優の後ろから、シスターが愛らしく話しかける。美優はその口調に違和感を感じた。まるで、何かを隠しているみたいだ。
 ハンカチを外し、うっすらぼけてしまった視線から、シスターの輪郭を見つける。雲が形を変えるかのように、徐々に輪郭がシャープに纏まる。
「シスター、今度は誰が悪戯を?」
 彼女の拘束具を見て、美優は唖然とした。みんなが一致団結して行った公演の後、すぐに悪戯をするような子供がいるだろうか? とても信じられなかった。
 しかしシスターは美優の態度を見て、横へと首を振った。
「違うわ。違うのよ。これは、私自身の問題なの」
「私自身?」
「そう。これから、罪深き行為を、やらなければいけないから……」
 シスターは瞳を細め、唇の端を少しだけつり上げた。微笑みと取れる表情だが、しかし美優にはそれが悲しみの表情に見えた。
「なにを、やるんですか?」
 やらなければいけない……。シスターが何を思っているのか、何をするつもりなのか、美優は不安で仕方がない。先ほどまで赤く火照っていた顔が、青ざめていく。
「美優ちゃん、いるかい?」
 廊下側から所長の声が聞こえてきた。美優はその声にはっとして、手に持ったハンカチを落としてしまった。そのハンカチを見て、拘束具に縛られているため文字通り手も足も出せないシスターが慌てふためく。
 なんとか彼女の手にハンカチを戻そうとうねうね動く。彼女の思考が口で拾えば良いんだと帰結する直前に、美優がシスターを落ち着かせてハンカチを拾った。
「居ますよ、所長。何ですか?」
「ちょっと、手伝って貰ったボランティアの方々にお礼参りに行こうと思ってるんだけど、美優ちゃんもどうかなって思って」
「あー」美優の視線が扉とシスターを行き来した。シスターはいってらっしゃい、という風に頷き笑みを浮べた。
「はい。連れてって下さい」
 シスターの態度にひっかかりながらも、美優はハンカチをポケットへとしまった。
「美優ちゃん」
 すぐに行くべきかどうか迷っている美優に、シスターが慈しみの籠る声をかける。
「今日の演劇。子供達の演技もそうだけれど、脚本も素晴らしいわ。本当に、良かった」
「そんな……真面目な顔で褒めないで下さい。恥ずかしいです」
「ねえ美優ちゃん。あの花は、あなたに咲いたのかしら?」
 美優は一瞬で、演劇に出て来たアイテムである花を思い返した。しかしあれは架空の花で、どこにもない花だ。
 しかしシスターに茶化すような雰囲気はなく、至極真面目に、その花があるのだと信じ込んでいるかのように、美優を見て微笑んでいる。
 美優が口を開き――、
「美優ちゃーん。もう行っちゃうよ?」
「は、はい、今行きます!」
 時計を見て足踏みをしているかのような声を出す所長へ、美優は慌てて返す。そのまま扉に手をかけ、後ろを振り返る。
 私はシスターに、なんて言おうとしたんだろう? 軽く、気づかれない程度に首を傾げるが、言い損なった言葉は美優の中で完全に形を失っていた。
 ほら、所長が待ってるよ、というような表情のシスターにしぶしぶ頷き、美優はトイレを後にした。

「あの……」
 所長の後ろをついて歩く美優が、切羽詰まったような声を出した。その声色に反応した所長が、足を止めて振り返った。
「うん?」
「一つ、前々からずっと気になっていたことがあるんです」
「気になっていたこと?」と所長が軽く身を乗り出した。
「シスターの手足に巻き付けている拘束具ですが、どうやって一人で取り付けていると思いますか?」
 美優はシスターを思い浮かべながら、手でどんな拘束具なのかジェスチャーをした。
 シスターは誰に助けを請うことなく、いつのまにか拘束具を体に巻き付けて美優の前に姿を現す。どうやって一人でそれを取り付けているのか、もしかしたら誰かが手助けをしているんじゃないかと、美優は思っていたのだ。
 しかし、所長は怪訝な表情を浮かべて唸った。
「シスター? それって、なぞなぞかい? 美優ちゃんは一体どんなところで拘束具なんて知識を得るんだい。……普通に考えるなら、手伝ってくれる人がいないと無理だよ。拘束具は、自分自身を縛るために出来てないからね」
「そう、ですよね」
 やっぱり……そうなんですよね。
 所長の答えを聞き、美優は諦めたように呟いた。

 舞台に関わった人達へのお礼参りが終わり、美優は公民館の外の縁側に腰を下ろした。ひんやりとしたコンクリートの感触が皮膚を伝う。空を見上げると紅が紺を帯び始めていた。じっとしていれば色の変化を感じられそうだった。
「美優お姉ちゃん」
 空から視線を降ろすと、綿のスラックスに白のパーカーを着た少女が目に入った。パーカーは夕日色に染められている。舞台衣装から私服へと着替えを済ませた茜だった。
「茜ちゃん、お疲れ様。舞台、すごくよかったよ」
「あ、ありがとう……」
 褒められて僅かに赤面した茜は、パーカーのポケットに両手を突っ込んで美優の隣に腰を下ろした。
「茜ちゃん、あのさ」
「うん?」
「茜ちゃんが前に言ってた『一晩しか咲かない花』だけど……」
 そこで言葉を句切った。美優はほんのこの次に、何を言うべきか考えていなかったのだ。
『人を傷つけちゃいけない』。多分そんなことを言わなくても、茜はもう気がついているだろう。
 美優はそう思い、ふっと微笑んだ。
「見つけられるといいね」
「……うん」
 この時、初めて美優は茜の笑顔を見た。俯いた茜の白い肌は僅かに紅潮していた。
 茜が信じる花がどんなものなのか、美優は目を瞑って瞼の裏に描く。
 白い雄弁を開き、平原を走る一迅の風が花びらを散らす。
 葉の擦れる音が聞こえ、
 月の光の下、
 花びらが淡く反射しながら風に舞う。
 体に風を感じ、
 花の香りが鼻腔をくすぐる。
 肺いっぱいに吸い込みたくなる香りをリアルに想像し、美優は瞼を開いた。
 見上げると空の紅は既に消え、紺が支配していた。
 一番乗りといわんばかりにマイナス等星が明るく輝く。
 縁側に腰を下ろした二人をそっと風が撫でる。
 美優はその風に、花の香りを感じた。
 瞳を開くと、垣根の向こう側に拘束具を身に纏ったシスターを発見した。彼女に振ろうと上げた手が、美優の胸の辺りで止まる。シスターは遠くてはっきりと見えないが、それでも彼女がどんな表情をしているのか、美優にはわかってしまった。
 ――ありがとう。
 ――さようなら。
 美優はシスターへと頷く。
 まるで、自ら産み育てた子供を慈しむような表情で、シスターは微笑んだ。
 美優はその表情を脳裏へと焼き付ける。
 瞼を閉じる。息を吸い、ゆっくりと深く吐き出す。
 再び瞼を開いた時にはもう、シスターの姿は消えていた。
 咲いたよ、シスター。私の中にも。
 震える唇から吐き出される息は熱く、視界がぼやけてゆく。それでも意識的に呼吸を整え、落ち着くよう自らを戒める。
 そんな美優を、不安そうに茜が見つめる。美優が今にも泣き出してしまいそうだが、そういう時にどうすればいいのか、わからないという風な表情だ。
 狼狽えている茜に気付き、美優は彼女の手を取り落ち着くようそっと力を込める。
「美優お姉ちゃん、その……大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 それは茜にではなく、自分に言い聞かせたかった言葉なのかもしれない。美優は胸の中でこみ上げそうになるものを必死に食い止め、ぎこちない笑顔を浮べた。
「茜ちゃんには特別に、昔託児所にいたシスターの話をしてあげる」
「シスター?」
「そう。修道衣を身に纏っていて、子供達が悪戯をすると拘束具を巻き付ける。危ない人に思えるけど、本当はすごく、私たちの事を思ってくれている、優しい人の話」
 美優は思うまま口を開き、茜は彼女の話に熱心に耳を澄ませた。
 閉館時間となり、所長が彼女達に帰りなさいと叱るまで、深淵に咲いていた花の話は途切れることなく続いた。





本作を読んで頂き誠にありがとうございます。

本作は第16回電撃大賞の一次予選敗でした。

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